これがブラームスだ!―続 交響曲第3番ヘ長調作品90

ブラームスは一般的には「偉大なメロディ・メイカー」とは呼ばれていないだろう。天国でブラームスは「しめしめ」と思っているんじゃないかな。皮肉屋だったからだけではない。きれいな旋律一本で勝負する「旋律屋」などとはいわれたくなかったろうから。「魂を安売りするか。メロディは音楽の魂なんだぞ」と彼はいったかもしれない。

ではブラームスの音楽はどうなっているのか。譜例左はお馴染み交響曲第3番第3楽章ポコ・アレグレット、右はこの音楽に決定的に影響を受けたであろう、ドヴォルザークの交響曲第8番第3楽章アレグレット・グラツィオーゾである。

両方とも短調(ブラームス ハ短調、ドヴォルザーク ト短調)、八分の三拍子、アレグレットという指示まで共通している。そもそもドヴォルザークは交響曲の第3楽章にミィディアム・テンポの音楽を配するやり方を引き継いだのだった。ちなみにブラームスの第3が1883年、ドヴォルザークの第8が1892年の作品である。ブラームスもメンデルスゾーン(『イタリア』第3楽章)の影響を受けたのだろうと書いたが、それは発想、アイディアだけだった。ドヴォルザークはより具体的にブラームスをお手本とした。

そのことを決定的に示しているのが、スコアに踊る三連リズムだろう。ところがこの同じリズムが、両者の違いを決定的に明らかにしているのである。ドヴォルザークの方は1拍にそれぞれ三連リズムが割り当てられている(譜例下)。ところがブラームスのスコアのヴィオラと第1・第2ヴァイオリンを見ていただきたい。1拍を2で割ったリズムと3で割ったリズムが同時進行するのである。片手で1・2を、もう片手で1・2・3を同時に打ってみるとよくわかる。簡単にはいかない。なぜなら2と3は割り切れないから。ブラームスは何か重い。

しかし、ドヴォルザークでは、音楽全体が旋律主体に動いており、実に爽快である。

別のいい方をしよう。ドヴォルザークの方は音楽的情報が旋律に集約されており、ほかのパートは背後に回り、第1ヴァイオリンを引き立てるように、協働的に動いている。ところがブラームスのは旋律以外のところでも何かものをいっているようだ。これはだたの伴奏じゃない。拍子に合った旋律と、足を引っ張るような割り切れないリズムが同居する。つまり音楽的情報が単一ではなくなっている、ということ。これがブラームスがただの旋律家と呼ばれない根本的な理由なのである。

ちなみに第3楽章では2対3のリズムが音楽の進行とともに増殖したりもする。ブラームスは古典的で「後ろ向き」な作曲家のようにいわれるが、彼の音楽史上の革新はこのリズム上の創意だったのだろう。第3交響曲のほかの部分でも存分に味わえる。

これは第2楽章のもっとも美しいところ。ともかく聴いてみようか。

チェロとファゴットに出る旋律に、第1・第2ヴァイオリンのオクターヴ・ユニゾンが三連リズムで波打つ。ヴァイオリンの線の骨格も実は主旋律をなぞっている。これって、どういう効果だろう。まるで目に映るものが蜃気楼で揺れるような光景だろうか。しかし揺らしているのは光の反射ではなく、眠っていた感情の目覚めではないのか。これは暗い音楽ではない。だから悲しみの領域にはない。でも何かの光景を見ていて、ふと感情がこみ上げる時がないだろうか。ほのかな喜びに、懐かしさも、寂しさも、悔しさも、愛おしさも、すべての感情が溢れ、目がうるうるすることがないだろうか。失われた過去への喪失感と惜別のような思いがこみ上げる。感じ方はいろいろあって、いいだろう。ただ、ここにでは感傷とは無限に遠いところで真情があふれているようだ。こんな音楽ほかにあるだろうか。

第4楽章では、こんなところもある。

第4楽章のいわゆる第2主題である。チェロとホルンが三連リズムの雄叫びを上げる。でもバスは4ビート・ジャズのような明快なリズムを刻んでいる。勢いのいい旋律に対して、足どりはあくまでも理性的でもあるよう。そう、この二律背反的なものの同居がまさにブラームスなのだろう。

ブラームスの割り切れないリズム法はさまざまな音楽的・表現的可能性をもっていた。そして、そこがもっともうブラームスらしいところなんだろう。