モーツァルト短調作品の心臓部を読む6「深化」―K.516とK.540
弦楽五重奏曲ト短調、わたしにはつらい曲だ。「フィナーレが長調だから希望があるだろう」。そのフィナーレでも、曲を通底している、存在を脅かすような不安を拭い去ることはできないように感じる。むしろ、明るいようにも響く輪舞は空転しているようで、最後まで痛々しさを引きずるだけではないか。
珍しく?感情論から入ってしまったか。ただこの曲には作曲家モーツァルトだけでなく、人間モーツァルトを想定しなければならないような何かがあるように思える。いや、もともと作曲家=人間なのだが、その関係がかつてなく濃密というか。
そして短調作品としてはアダージョロ短調K.540も見逃せない。
回り道は無い……それどころか
この「読む」のシリーズの流れをちょっと確認しておこう。特に「3」のピアノ・ソナタハ短調K.457から、「5」のピアノ協奏曲ハ短調K.491までに注目である。もちろん第2主題の再現の処理をめぐってなのだが、もともと主題の回帰の前にちょっとした「回り道」をすることが普通となっていた。
回り道(「逸脱」とも呼んでいた)は長調領域であり、そこから迂回して、短調の第2主題へ帰還するのである。確認しておくと、短調の曲でも第2主題は同主長調で還ってくるのがソナタ形式の基本的な図式であり、それは予定調和的な結末をもたらす。ベートーヴェンの「暗黒から光明へ」など典型的である。古典的な劇のハッピー・エンドなのである。
ところがモーツァルトでは長調に行くと見せかけて、短調へ引き戻されるのである。結果として、第2主題の暗さがいっそうきわだつ。ある種の逃れられない悲劇性といった含意をにじませる。ドラマ的な演出ともいえよう。モーツァルトの短調作品で決して聴き逃すことができない「心臓部」である。
たとえばソナタハ短調K.457では回り道は遠隔調だった。それが次の短調作品であるピアノ四重奏曲ト短調K.478では近親調となった。そしてピアノ協奏曲ハ短調K.491では逸脱そのものが消滅する。回り道などもはやない。
弦楽五重奏ト短調はその上を行く。
何と、提示部でさえ、第2主題がト短調で出現するのである。これは前代未聞ではないか。明らかにソナタ形式の図式に反している。ここでは提示部を引用する。

第26小節で変ホ長調から変ロ調(提示部での第2主題の調)へ向かうかと思われた音楽が、またト短調へ方向転換する。こうして第2主題は主調で侵入して来るのである*。異常というしかない。
*第29小節以下は、第2主題ではなく、推移部だという分析もあるかもしれない。しかしあまりにも図式的、帳尻合わせ的なアナリーゼは作者のアイディアを毀損してしまいかねない。提示までの手続き、置かれた場所、それに第1主題のモティーフを使った締めのコーダの存在、さらには展開部でもっぱら使用されるなど、ただの推移部ではないとすべき根拠がある。むしろ第2主題を推移部的に調性を不安定にするという柔軟なアイディアを見るべきではないか。そうした発想がこの曲を特別なものにしている原因かもしれないのである。
ようやく7小節後(第34章節)に、ドッペルドミナントによって、あるべき変ロ長調へ転じる。しかし、そこでも同じ和音DD(減七の和音で、変ロ「短調」からの借用)が繰り返される。執拗に変ロ長調を確立するかのようだが、続く部分でも短調の陰は完全には消えない。
提示部での第2主題は長調の光とともに現れるはずである。ところが何の進展も、いわんや打開もなく、短調を引きずったままなのである。ト短調の闇の支配はそれほど強いのか。冒頭から聴いてみよう。
短調は提示部の第2主題部にまで浸食した。特異ともいえるこの書法は深刻な後遺症となって曲の最後まで影を落とすのかもしれない。抱え込んだトラウマを癒やし、解消するフィナーレは存在しうるのだろうか。
再現部での第2主題の導入は提示部と同じである。調が同じなのだから、何も変える必要はない。異常なのは、第2主題自体がト短調からハ短調、ニ短調などを目まぐるしく行き来することである。
調性が揺れ動く提示部の第2主題の再現部版だろう。第2主題は主調の安定した領域とするのがソナタ形式の原則である。ところが、落ち着きなく短調を彷徨い、最後のコーダ(と呼んでおく。第201小節以下)はもはや逃れようのない最終の地、まるで墓場となるようだ。提示部と同じように、ここで冒頭のモティーフが主題労作的にたたみ込む。
真っ暗である。提示部後半だけの明るさは、到底、対抗できるべくもない。
第2の展開部
異例ずくめの弦楽五重奏曲K.516でも、特筆すべきは、再現の直後、第1ヴィオラが主題を引き継ぐところから起こる(第141小節)。第2ヴァイオリンがヴィオラに応える(第144小節)。提示部にはなかったちょとした変化だが、驚くべき展開に引きずり込むことになる。冒頭主題に含まれるAの動機を赤、Bの動機を青で示してみよう。

主題に含まれるモティーフを有機的に散りばめ、模倣するのが主題労作だったが、その密度が徐々に高まる。こうしてチェロがフォルテで切り札のAを出し(第149小節)、すさまじい展開が怒濤のように押し寄せる。ヴィオラ以下はAがせめぎ合うように競合し、そこに2つのヴァイオリンはBで応酬するという驚くべきテクスチュアである。
これはもはや主題労作ではなく、いわゆる展開部のクライマックスに置かれるべき高密度な処理といわざるをえない。先に聴いたメロス四重奏団のライヴの演奏で聴いてみよう。譜面のことろかから。
モーツァルトはK.504の『プラハ』シンフォニーの第1楽章で、いわゆる「偽の再現」「見せかけの再現」を試みた。これはハイドンが好んだ一種のトリックで、まず展開部の中で第1主題を主調ならざる調で出し、また展開になだれ込む。そして今度は本当の再現が来る。「さっきのは何だったんだ」という落ち。
ところでモーツァルトはただハイドンを真似ただけではなかった。『プラハ』第3楽章フィナーレではこんな工夫をした。やはりソナタ形式なのだが、再現の後で、展開部のトゥッティが戻ってくるのである。「あれ再現じゃなかったの? まだ展開部?」。ところがすぐに第2主題がやって来て、わかる。「やっぱり本当の再現だったんだ」。
音楽って感情を羽ばたかせる翼であるだけじゃない。こんな知的な遊戯でもある。まとめると、こうなる。『プラハ』の第1楽章と第3楽章の展開部以下である。
第1楽章:展開―[偽の再現]―展開―[真の再現]
第3楽章:展開―[真の再現]―第2の展開
そう、再現が終わった後に再び展開部的な部分に突入するというアイディアを「第2の展開」、もしくはその部分を「第2の展開部」と呼ぶことにしよう。詳細な精査が必要だが、「第2の展開」は『プラハ』で意識され、弦楽五重奏曲ト短調にもち込まれたのではないか。
モーツァルトの展開部はあまり長くないのが常であり、弦楽五重奏曲ト短調の場合は、第2主題による展開の掘り下げも特に深いとはいえなかった。しかし再現後の短いが、濃密な「第2の展開部」はそれを補い、再現部に効果的な変化をもたらし、さらに展開部を長く見せるという効果をもつ。
モーツァルトの心に何が?
もはや「回り道」は消滅した。それどころか提示部でさえ2主題が短調(主調)で現れ、再現の前には激烈な葛藤を示すような展開が行われたりする。
個人的には、音楽を感情だけで論じないことにしているし、作者の思いがどうのといったところに踏み込むことも警戒している。なぜなら音楽の分析的手法はそういった質的な領域に踏み込めないからである。
もう少し正確にいえば、歴史研究はあくまでも「状況捜査」である。決定的のように見える証拠が現れても、あくまでも補完的な要素とともに仮説を立てるしかない。「事実」というものはない。
音楽研究も同じである。さまざまな分析結果を集め、パスルのように組み合わせ、そこからひとつの絵、つまり仮説を導き出すしかないのである。それが作品の何たるかにかろうじてアプローチする唯一の道だと思っている。しかし音楽の質ともいうべき核心部分について、時間的な経緯における「推移」が浮かび上がると、さらに仮説が鮮明に見えてくるようでもある。作者の心の変遷があぶり出されているように感じるからである。
われわれは「モーツァルトってどんな人?」と問うたりもする。しかしモーツァルトとは固定した「人」というより、時間を生きた「現象」かもしれないからである。
すでに書いたように、ソナタ形式における第2主題の再現は最終的な決着だった。最終的というのは、最初の決着が第1主題の再現であり、第2主題はそれにとどめをさすからである。最初期から一貫して、ソナタ形式の理論に反して、短調作品での第2主題の再現として短調を選んだことは、モーツァルトの起点だった。彼の「人間」の基底に在る何かに起因していたのだろう。
モーツァルトはその再現にあたり、ある種のドラマ性を秘めた仕掛けを介する傾向があった。「回り道」あるいは「逸脱」と呼んだ一時的な回避からの帰還に、ある種、宿命的ともいえる演出を施すのである。しかしケッヘル番号400番の最後あたり、1786年頃からそうした試みは消えてしまう。第2主題は容赦なく、直接、短調で還って来る。どこにも逃れる道はない。
多分、度を超した連想だろう。それでも思い出さずにはいられない。当時、病の床に伏せっていた父親に宛てた有名な手紙の一節である。
「死は(正確にいうと)われわれの生の真の最終目的なのですから、この数年来、人間にとってのこの本当の親友とわたしはかなり親しくなっています。ですから、その姿は、わたしにとって、もう少しも恐ろしくはなく、むしろ多くの安らぎと慰めを与えてくれるのです!」。
da der tod |: genau zu nemen 😐 der wahre Endzweck unsers lebens ist, so habe ich mich seit ein Paar Jahren mit diesem wahren, besten freunde des Menschen so bekant gemacht, daß sein Bild nicht allein nichts schreckendes mehr für mich hat, sondern recht viel beruhigendes und tröstendes!
手紙が書かれたのは1787年4月4日、弦楽五重奏曲ト短調が完成したのが5月16日、そして28日にレオポルトは逝去した。
パリ旅行で同行した母親を、モーツァルトは異国の地で亡くすという衝撃的な経験をした。21歳のことである。父親の死の年は31歳になっていた。5年前に結婚し、それまでに生まれた3児のうち、生き延びたのは、第2児のカール・トーマスのみだった。ちなみに夫妻は最終的には6人の子供をもうけたが、4人が死亡した。
「生の最終目的」の姿はモーツァルトの眼には、多くの死に遭遇した生の歩みの中で、徐々にはっきり映っていたのだろうか。
それでも……あなたの御心がかないますように
1788年、孤立したピアノ小品が書かれた。作曲の目的は何とでもこじつけられるかもしれない。確かなことは、どこにも属さない小品がモーツァルトの心から流れ出たということである。アダージョロ短調K.540である。ロ短調という調性も珍しい。
もちろんコンチェルトのような公的な音楽ではない。いっそうインティメートなジャンルであるソナタの一部でもない。ただ断片のように、自分の楽器=ピアノから紡ぎ出された音楽。親密というより、これはもはや閉じた音楽であり、自分だけの心に届く響きのようだ。
やはり提示部と再現部の推移部は調性が違うだけで、同一である。再現部に特別な変化はない。再現部における属音(ドミナント)のペダル部分を引用しておこう。

特徴的な和声の部分を簡略化して譜例下に示したが、持続する属音はFisである(ロ短調の第5音)。そこに3度の響きが半音階でずれて上昇し、ぶつかり、重なり、また離れていくだけのハーモニーである。決定的なトニックを準備する安定的なドミナントというよりは、色彩的な響きのたゆたいのようだ。調性も安定していない。
第44小節の3つめの和音E・Cis・Fis・AisではじめてドミナントD7が確定する。不安定な第3転回型だが*。
*ちょっと詳しく(詳しすぎる?)説明しておくと、第43小節目の最後と第44小節目の最初の2つの和音は減七の和音である。ドミナントの9の和音D9の根音省略形ともみなされ、短調からの借用音である第9音を含む。だからきわめて陰の濃い響きとなる。第9音はこの場合Gだが、提示部ではニ長調のはずなのに、わざわざニ短調の変ロBを使っている。提示部でも短調志向が強く、再現部と同じ傾向にある。
当然、第2主題はロ短調だが、短調での慰めとなるべき偽終止の部分でもAisが’(譜例青丸)、暗い影を落とす。
ロ短調アダージョでもっとも特徴的な部分はコーダだろう。よくバッハ風といわれるピカルディの3度による終止である。曲はまばゆいロ長調で閉じる。♯5つの長調にモーツァルトは滅多に近づかなかったはずだが。

この部分で再びわたしに強く連想を迫るものがある。ゲッセマネでのキリストの言葉である。
ゲッセマネはキリストが十字架に架けられた丘である。明日起こることを彼は知っていた。前夜、丘に来て、祈らずにはいられなかったのである。
「父よ、あなたにできないことはありません。この杯をわたしからとり除いてください。それでも、わたしの望みではなく、あなたの御心にかなうことが行われますように」。(『マルコによる福音書』第14章36節)
キリストはこの世に使わされた理由と目的を、自分の運命を知っていた。それでも最後に「この杯(苦杯、死)をわたしからとり除いてください」と祈らざるをえなかった。ただし最終的には自分を超えた大いなるものに従う、というのである。
これは神であり人でもあるというキリストの弱さの証しではあるまい。むしろ人間的な側面として存在を確信させ、イエスへの愛と共感の源となるのである。
モーツァルトも父親には「人間にとって死は親友です」と書いた。「安らぎと慰め」だとも。しかし自分だけに向けられた曲の最後で「この杯をわたしからとり除いてください」という願いが音楽に溢れ出たのではないか。心の底にあった拭いきれない思いが図らずも吐露されたのではなかったか。
明るく振る舞っていたかもしれないが、モーツァルトはきわめて現実的な人間でもあった。生と死の悲惨を直視していただろう。しかしロ短調アダージョの最後で、希望の一条の光が射し込む。
そんなことは起こりえない。誰よりもわかっている。しかし、ありえないことを願わずにはいられないのが生なのか。そこに真摯な眼差しを向け、受けとめ、表現した時、わたしを超えられたのかもしれない。
その表現とは、誰かに語られるのでもないし、表に現すことでさえない。ひたすら内なる祈りなのである。
K.540はト短調五重奏曲の真のフィナーレだったのかもしれない。調性はかけ離れているが。内田光子女史の演奏で、全曲を。