女性の台頭と男性の没落?3「レディオヘッド、そして……」―70年代以降のポピュラー音楽史
英語で “What are you?" と聞かれると、職業で応えるのが普通だという。"I’m a doctor"といった感じである。つまり、わたしが何者であるかは、職業によって示される。社会に開かれた存在としての個人の正体が、職業で認知されるのである。しかし一昔前までは女性には職業が無かった。現在ではキャリア・ウーマンは普通である。だがかつて女性は社会的存在では無かったということである。
たとえばボーマルシェの『フィガロの結婚』(1778年)には、市民革命前の女性の悲惨さが同性からの告発という形で噴出している(これを原作としたモーツァルトのオペラではカット)。いかに歪んだ形で女性が社会の隅に追いやられ、生きづらいかが、糾弾されるのである。
『旧約聖書』にはこうある。禁断の木の実を食べてしまった人間に対し、神は「男は額に汗してパンを食せ」(創世記3章19節)と告げる。これに対して女性には「産みの大いなる苦しみを与える」(同第3章16節)というのである。「生きるために働く」男性像と「生む性」としての女性像が描かれている。
また神はみずからに似せて男を創造した後、人が独りでいるのはよくないと考えたようだ。「彼のために、ふさわしい助け手が必要」(第2章18節)だと。こうしてアダムの肋骨からイヴを造ったという。そもそも旧約聖書では男性は「人」もしくは「男」と呼ばれているが、女性は「女」だけである。人の基本は男であるかのように、である。伝統的な女性観の起源のひとつがここにあるのは間違いない。
現代社会では男尊女卑的な発想は駆逐されているはずだが、伝統は根深い。また現在でも、地球のある地域では、女性への差別的で閉鎖的な立場は存続している。女性はまるで男性の所有物であるかのようだ。
ところが、女性が解放されるや、彼女たちはただの受け身だけの存在ではなかった。「より美しい性」の社会進出の可能性はきわめて大きく、それに応じて広がるさまざまなあり方も多様であり、選択肢が広い。現代ではそこに否定的な眼差しも無い。たとえばシングル・マザーという生き方がネガティヴにとらえられることもない。むしろ先進的で、カッコいいということにもなる。
こうして、現代社会では、むしろ男性の方がステレオ・タイプで狭い生き方を強いられることにもなる。
隷属的であることから独立的へと向かうことは、ポジティヴな方向への自由度が増すことを意味する。喩えていえば、マイナスからプラスへ向かうことはポジティヴである。だがプラスからマイナスへ下降することはネガティヴにならざるをえない。それが男に起こったことなのだろう。
「男だろ、しっかりしろ」といういい方がある。今までは、たとえしっかりしたものがなくても「男」という看板にしがみついて「男らしく」生きればよかったかもしれない。しかしある時、女性の勢いに押されて、気づいた。自分の中には男らしいもの、確固たるものは何もない。彼女の方がしっかりしているではないか!
グランジのその後―レディオヘッド
1992年、トム・ヨークが結成したイギリスのバンド、レディオヘッドの「クリープ」がリリースされた。こんな暗い曲が陽の目を見るとは誰も予想していなかった。案の定、最初は注目を浴びなかった。だが、徐々に火がつき、翌年、アメリカでブレイクする。ニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーンズ・スピリット」の2年後だった。
ちなみにアメリカでグランジと呼ばれた音楽は、イギリスではオルタナティヴ・ロックと名づけられた。その代表格がレディオヘッドだった。以後、レディオヘッドはアルバムを次々と発表し、時代のもっとも進んだバンドという評価を受けることになる。「クリープ」はその出発点にして最大のヒット曲だった。
陰鬱なイントロの後、憔悴したような、だるそうな歌声が響いてくる。
以前 きみに目を合わせられなかった
きみは天使のよう 涙が出るほどキレイな肌
美しい世界を きみは羽毛のように舞う
ぼくも特別だったらいいのに きみはマジに特別なんだ
When you were here before, couldn’t look you in the eye
You’re just like an angel, your skin makes me cry
You float like a feather in a beautiful world
I wish I was special, you’re so fuckin’ special
天使のように完璧な「きみ」。現実を軽やかに浮遊するような特別な存在……。と、ここでドラムスと歪んだギターが炸裂し、うなる。リフレインである。
でもぼくはぞっとするようなやつ 変人
一体ここで何をしてるんだ?
ここはぼくの居場所じゃない
But I’m a creep, I’m a weirdo
What the hell am I doin’ here?
I don’t belong here
神のような「きみ」に、虫唾が走るような「ぼく」が対比される。「クリープ」は片思いと劣等感の曲だといわれる。思春期の若者特有の誇大妄想的な歌だと。確かにそうかもしれないが、曲に潜む歪んだ凶暴性は、妙な現実味を帯びている。
たとえ逆説的にでも「愛と夢」を歌うポピュラー音楽の世界とは比較さえ成立しないだろう。もはや完全にかけ離れてしまった。夢だとしたら、これはほとんど悪夢であり、犯罪性さえ帯びるようだ。
極端な対比とそれゆえの残酷な自己否定の激しさは救いようがない。こうして「ここはぼくの居場所じゃない」という言葉に行き着く。「ここ」とはどこか、彼女の前か。彼女がすべてだとしたら、この世界、現実なのか。つまり自分は非現実的な存在? 「自分の場所じゃない」という表現は、以後のロックの常套句ともなる。
確認しておくべきは、あわれな自分に対して位置づけられているのが、完全な女性だということである。ここで「スメルズ・ライク・ティーンズ・スピリット」に登場した「きみ」が思い浮かぶ。しかしあそこでは彼女のアイデンティティの強固さ、堂々たる存在性の確かさが憧れの的となっていたのだった。「クリープ」ではどうか。2番の歌詞である。
傷ついたってかまわない 自分を抑えたい
完璧な肉体が欲しい 完璧な魂が欲しい
そばにいないとき ぼくに気づいて欲しい
マジで特別だから ぼくも特別だったらいいのに
I don’t care if it hurts, I wanna have control
I want a perfect body, I want a perfect soul
I want you to notice when I’m not around
So fuckin’ special, I wish I was special
みずからを抑えるためには、傷ついてもいいというのは、どうしようもない闇の声が自分の中に響いているということか。「犯罪的」というゆえんである。そしていう。完全な「肉体」と「魂」が欲しい、と。女神のような完璧なきみに見合う存在となるために。
「魂」はわかるとしよう。人間の内なる何かである。「肉体」というのは、簡単にいえば、外見ということか*。彼女の完璧な肉体に憧れているというのか。ここに「クリープ」の病巣の深さと浅さがある。深さというのは変えることができない現実から出ている「どうしようもなさ」であり、浅さというのは外見「見えること」に執着して自己否定するという姿勢である。
*トム・ヨークは生まれつき左目を麻痺していて、そのために手術を何度も受けた。この経験が「完全な肉体」に反映しているかもしれない。
浅いといっても、決定的な自信の欠如と、それに反する、あるいはそれゆえの女性に対する羨望は切実で、真実味を帯びてる。そして「ティーン・スピリッツ」のいわば魂レヴェルに「クリープ」の肉体レヴェルが補完されて、この時代の女性に対する男の劣等意識の全体像が浮かび上がる。
強烈な自己
トム・ヨークが「クリープ」を作曲したのは1980年代後半だったという。ギタリストのジョニー・グリーンウッドによると、ある特定の女の子に触発されたという。1988年、トムは大学に入学し、後に結婚するレイチェル・オーウェンと出会う。「クリープ」に見られる女性に対する病的ともいえる臆病さはその後どうなったのか。
90年代ロックの最高傑作のひとつともいわれる第3アルバム『OKコンピュータ』(1997年)の「エグジット・ミュージック(フォー・ア・フィルム)」には「ぼく」対「彼女」ではなく、「ぼく+彼女」対「(彼女の親などの)他者」の構図が生まれている。彼女とは無事ベッド・インできたようだ。
目を覚ませ
涙を乾かせ
今日 ぼくらは逃げ出すんだ
荷物をまとめろ 服を着るんだ
きみの親父が気づく前に
修羅場になる前に……
息をするんだ ずっと
ぼくひとりじゃできない
Wake from your sleep
The drying of your tears
Today we escape We escape
Pack and get dressed
Before your father hears us
Before all hell Breaks loose……Breathe, keep breathing
I can’t do this alone
最後のライン、ひとりじゃあ息もできないというのは、きみなしでは生きていけないということである。しかし彼の眼差しは二人の存在に気づく「きみの親父」の世界に向けられる。
おまえら笑えるだろ 生気のない笑い
おまえらの規則や知恵が窒息するのを ぼくらは希望する
今 ぼくらはひとつ 永遠の平和の中で
おまえら 窒息すればいいのに それがぼくらの希望…
You can laugh spineless laugh
We hope your rules and wisdom choke you
Now we are one in everlasting peace
We hope that you choke
彼女はぼくの陣営にとり込めたようだが、周囲に対する嫌悪と憎悪は激しい。もっとひどいのは「フィッター・ハッピィヤー」だろう。日常というレールに乗っかかって安逸に生きている「俗物」へ集中砲火を浴びせる。
だが、ぼくら(ぼくと彼女)という「特別な人種」と「普通の人」という区別は単純すぎないか。よく見れば、普通の人たちという名でくくられる人たちの実体は、それぞれが特殊性を秘めていないか。どんな平凡な人間でも、身をすり減らしながら、その日を生きているかもしれない。だが日常に潜む闇に寄り添うような眼差しは微塵もない。それにここで「特別でない人々」「俗物」へ向けられた憎悪は、かつてクリープに潜む自己嫌悪の裏返しにしか見えない。
ではかつて忌避していた特別ならざる「ぼく」を特別にしたものは何か。きみとの関係、あるいはきみの愛、平たくいえば、きみがぼくという存在を認めてくれたことだったろう。つまりわたしの自己肯定、存在は完全に「きみ」に依存していることになる。
自己の拠って立つところを社会など自分の外に求めるのではなく、あくまでも自己の内に究明し、それを誠実な自己実現とする立場を実存主義的といっておこうか。一見それっぽいとしても、ここに見られるのはきわめて非実存主義的というしかないだろう。なぜなら自己は完全に他者=きみによって定立されているからである。
しかも、他者に依存している自分は、また周りを否定する強烈な自己中心主義者ともなっている。肯定してくれる他者だけを受け容れ、他は排斥するという構図がある。ここでは弱者と強者が奇妙に裏と表となっている。そのことに本人は気づいてもいないようだ。
2000年、トム・ヨークはビョークのアルバム『セルマソングズ』にゲストとして参加した。映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のサウンド・トラックだが、「アイヴ・シーン・イット・オール」で共演したのだった。
ビョークはファースト・シングル「ヒューマン・ビヘイビィアー」(1993年)で、人間の行動は得体が知れないと歌った。でもそんな人間が大好きだと。ビョークの肯定的で包容力ある世界観はスタートから明らかだった。そんな彼女とネガティヴ志向のトム・ヨークにはどんな接点があったのだろうか。
2000年の第4アルバム『キッズA』にはビョークの世界観に接近する曲が見られるようだ。「エブリシング・イン・イッツ・ライト・プレイス』である。すべては正しい場所にあるというポジティヴな内容はビョークを思わせる。しかしここで気になるのは「正しい」という表現である。誰にとって正しいのか。ビョークだったらそんな判断は必要ないだろう。すべて丸ごと肯定するに違いない。
もし「正しい right」が気になるというなら、あくまでも「わたし」「我」が介入しているともいえる。しぶとい、頑固な自己への固執である。
女性に対して臆病な時期を経て、自分を認めてくれる恋人ができると、自己が安定するようだ。憎悪の標的は二人を認めない周囲に向けられる。だがやがてトム・ヨークにも「普通の」生活が訪れる。レイチェル・オーエンスとの間に子供が生まれ(2001年)、結婚する(2003年)。
こうしてトム・ヨークの確かな自己肯定を求める旅は迷走するようだ。彼が書く歌詞はいっそう複雑化し、不鮮明化するかに見える。ただ『クリープ』のその後を示唆するような曲もある。
レディオヘッド7作目のアルバム『イン・レインボウズ』(2007年)は「オール・アイ・ニード」で幕を開ける。「必要なのはきみだけだ」という内容だが、2番の歌詞には自分を「ただきみの明かりを共有したいだけの蛾」と呼んでいる。「クリープ」を想い起こさせる。
ここでは、相変わらず、とるに足りない「ぼく」が依存する絶対的な「きみ」が歌われている。ここでいう「きみ」とは何か。彼女なのか、それとも神のような存在なのか。というのも人間が「ぼく」を支える絶対的な対象となりうるか疑問だからである。特に普通の生活の中でどうなのか。ちなみにレイチェルとは2015年に離婚している*。
*2020年にはイタリア人の女優ダジャナ・ロンシオーネと再婚した。
ひたすら唱えるような旋律に、サウンドには不協和なものがつきまとい、不穏なものがよぎる。最後に高揚が見られるようでもあるが。
危うさの構図―リンキンパーク
90年代の女性シンガー・ソングライターのひとりに、スウェーデン出身のメイヤがいる。グラミー賞にノミネイトされたこともあったが、特に日本でブレイクしたようだ。ある時、車のFMラジオから、「マイ・ベスト・フレンド」(1996年)という曲が流れてきた。締めのフレーズ “ I’m in love with……” が耳に入って、何となく次の言葉として “you” を想定して、聞くともなく聞いていた。
弦の温かいサウンドが織りなすやさしい音楽である。
ところが歌われたのは 何と“me" だった。ぶっとんだ。「わたしは自分に恋している」だと。「わたしの親友 my best friend はわたし自身」という曲だったのである。「男には書けない曲だろうな」と思った。「特にグランジやオルタナティヴ・ロックの連中には、絶対!」。
一方で、男の世界の重苦しい霧は途切れることなく続いていた。
同じ霧は「21世紀でもっとも売れたバンド」をも覆っていたようだ。リンキンパークは2000年にデビューしたアメリカの6人組バンドである。オルタナティヴ・ロックとメタル、それにヒップホップを融合させたようなサウンドから、幅広いジャンルの音楽要素を融合させた。歌詞の内容はアイデンティティの問題を扱うことが多く、時代の代弁者でもあるともいわれる。
デビュー・アルバム『ハイブリッド・セオリー』(2000年)の第8曲「イン・ジ・エンド」は、すでにリンキンパークの世界を象徴し、予言しているかのようだ。生という虚無の中での闘いが歌われるが、結局のところ in the end どうでもいい。シーシュポスの神話を想わせる徒労の永劫回帰。そんな生という営みの中で、ただがんばったという記憶だけが残る。
第2アルバム『メテオラ』(2003年)の「ライング・フロム・ユー」は女性に合わせるために、望まれるがままに演技し、フリをしている男の歌である。「おまえの中のオレに似た部分が嫌いだ」という件は、明らかに「クリープ」以来の自己嫌悪の系譜にある。この男は「出て行く」といっているが、本当にできるのか、怪しい。
同アルバムの「サムホエア・アイ・ビロング」では、自分の居場所が無いと歌われる。リアルなものは何も無いという叫びである。この現実では自分という存在が、それゆえ世界そのものが幻のようであるという。オルタナティヴ・ロックの典型ともいえる。
「フェイント」でもきみの大切さが歌われる。でも「行ってもいいよ。ただぼくはここにいる。おまえがすべてだから」。ねじれた人間関係の苦渋の中でのたうちまわるブルース的なものがにじむ。
第3アルバム『ミニッツ・トゥ・ミッドナイト』(2007年)第10曲の静かな「イン・ビトウィーン」は、リンキンパークの世界を解く鍵となるかもしれない。ここには真の自分であること、やるべきことと現実の間で引き裂かれ、固まってしまう男がいる。存在の危うい構図を起因させているものが垣間見えるかもしれない。リフレインにはこうある。
プライドと約束
嘘と真実が邪魔をする間に
きみにいいたいことは 出てくる前に失われた
最悪なのは ひとつの選択肢も無いこと
Pride and my promise
Between my lies and how the truth gets in the way
The things I want to say to you get lost before they come
The only thing that′s worse than one is none
妙なプライドが素直な関係を紡ぐ邪魔をするのか。結局、本来の自分であることを疎外しているのは、自分自身なのか。
ヴァースには「本物であることは 難しい」、だが「他の誰かになることも難しい」という。間で in between 動けなくなってしまう。自分自身にも、他の何者かにもなれない? ニルヴァーナの「カム・アズ・ユーアー」で示唆されていたものへの発展形か。
自己の確立における絶望的な状況を歌う音楽が、大観衆の熱狂の中で繰り広げられるリンキンパークのライブの光景には異様なものがある。
リード・ヴォーカルのチェスター・ベニントンは2017年7月20日に自殺し、グループは活動休止に入った。
その後のバンドは過去への後ろ向きな活動(『ハイブリッド・セオリー』、『メテオラ』のそれぞれ20周年記念盤の発表)に終始するようだ。2024年、エミリー・アームストロングをヴォーカリストに迎え、アルバム『フロム・ゼロ』をリリースした。新しいヴォーカルが女性だったことから、過去を清算しようとしたのか。だが彼らの再出発は本当に「0から」のスタートとなったのか。
歴史のひとつの回答―ビートルズ
自立した何者かでなければならないという暗黙の要求は、男にとって、何か抜き差しならないものがあったようだ。特に女性が既存の女の枠から飛び出した歴史的推移の中で、男たるものの存在理由がみずからの内に厳しく問われたかに見える。
性差別主義的な立場を固執しているのでは無い。ただ歴史的事実の現実を見ているのである。
すると、見えるのは、自分という存在を支えるものは何も無いという目眩のするような帰結のまわりを、ひたすら旋回するだけの空虚な運動である。まるで、光の周りを、近づくことも遠ざかることもできず、ひらひらと永遠に舞う蛾=我のようだ。
実はグランジあたりからじわじわとポピュラー音楽に表出してきたように見えるアイデンティティの問題は、いつの時代にも妥当する普遍性をもっていた。70年代からの新たな女性像の確立によって、それが男たるべしという強迫観念のもとであぶり出されたように見える。
たとえば「自分は何者か」という問題は、ビートルズの重要なテーマでもあった。あまり指摘されないが、彼らが偉大だったのは、アイデンティティ・クライシスといった普遍的な問題をすでに追求し、回答を与えていたことだった。
ビートルズの音楽でアイデンティティに亀裂が入るのは、まず「アイム・ア・ルーザー」(1964年)だったろう。実際の自分と見かけの違いが暴露されるのである。
そして「ノーホエア・マン」(1965年)ではどこにもいない男が出現する。彼はどこにも無い場所に座り、誰のためともなく思案をめぐらす。そしてこの男って「まるできみのようだ」と歌われる。ここでいう「きみ」あるいは「きみたち」こそ、80年代から歴史的な現象として姿を現したのではなかったか。
そしてビートルズの回答は? それを論じるには別の項目が必要だろう*。
*自著『ビートルズ音楽論』(東京書籍、1999年)、および『文化としての西洋音楽の歩み ― わたし探しの音楽美学の旅』』(音楽之友社、2013年)でも論じた。いつかブログにも収録したい。