音楽はリズムである―ヴィヴァルディ『夏』

去り行く季節を追うように、ひとつ書いてみよう。ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲『四季』より『夏』第3楽章である。

クラシックではベスト・セラーの『四季』である。それぞれの曲には詩(14行詩ソネット)がついている。『夏』の第3楽章はこうである。「ああ、恐れは現実となった。天に雷鳴が轟き、雹が(ひょう)が襲って、穀物を痛めつけ、なぎ倒した」。音楽による夏の嵐の襲来である。楽譜を見てみよう。

スコアを見る限り、音楽以前のようだ。弦が大ユニゾンで同じ音、それもほとんどGを奏しているだけ。ところが実際に演奏を聴いてみると、すごい! わくわくするような音楽のうねりに呑まれる。ヴィヴァルディの才能、全開である。クラシック空前のヒットとなったイ・ムジチの演奏で聴いてみよう。

音楽の三要素といえば、リズム、メロディ、ハーモニーである。このうち、音楽の代名詞であり、音楽そのもののようにいわれるのは、メロディーだろう。リズムとハーモニーはメロディに織り込まれる副次的要素のようだ。しかし、実は、音楽には別の要素も存在する。たとえば歌詞である。西洋音楽の発祥はグレゴリオ聖歌にあるといわれるが、宗教に仕える音楽でももっとも重要なのは、聖典を唱える言葉、歌詞ということになる。だからこそグレゴリオ聖歌はメロディだけ、あるいはお経のような音楽となるのである。同じ理由で、西洋音楽の始めは声楽中心だった。しかしバロック期に楽器が主要な地位を占めると、音楽は一変した。

音楽はメロディなしで、リズムだけでも成立する。バロック中期におけるコレッリなどの合奏協奏曲の作曲家たちも、すでにこのことに気づいていたはず。しかしヴィヴァルディはリズムとしての音楽を究極まで推し進めたようだ。

リズムとしての音楽を成り立たせているものは何か。つまり「夏」第3楽章をワクワク、ゾクゾクさせているものは何か。リズムはただ打つだけならビートでしかない。しかし拍子という時間的なシステムがもち込まれることで、強拍と弱拍の概念が生まれるのである。拍・ビートは小節内の位置によってある性格を帯びる。たとえば『夏』の場合、強・弱・弱だが、2つの「弱」は同じではありえない。後の弱は次の小節の頭へと落ちるエネルギーを秘める。こうして強拍ははねるような弾性で息づき、エネルギーの循環構造が生じる。ここから音楽の前進衝動、スウィング感が生まれるのである。このことは指揮棒を見るとよくわかる。

歌詞に頼らない器楽は、音楽のこの根源的ともいえるスウィング感、生命力を揺り起こした。リズムの音楽を成立させたのである。バロック期で「器楽の誕生」と「拍子の確立」の時期がほぼ一致していたのは偶然ではあるまい。

ヴィヴァルディの『夏』が拍子なしには成り立たない音楽であることがわかる。だから演奏家も三拍子を全身で感じなければならない。しかし、ヴィヴァルディは拍子の限界もわかっていたようだ。というのも、拍子は時間の秩序だが、秩序どおり何ごともなく進行していると、感覚が麻痺してしまう。そして秩序はただの惰性と化してしまうのである。だからヴィヴァルディは冒頭の数小節にもいろんな工夫をした。

まず冒頭の4小節、三拍子だから、|強・弱・弱|強・弱・弱|強・弱・弱|強・弱・弱|だが、最後の弱が不意に八分音符で途切れている。3拍目の弱拍を八分音符にし、八分休符を置いているのも「しり切れトンボ」感を強調しているのだろう。

そして次の小節の全休符のフェルマータが決定的である。「一時停止」の指示。その意味するところは、これでもかこれでもかと三拍子をやっておいて、ここで「あれっ、三拍子どこいったの?」という感じを出すことにあったといえよう(譜例「?」)。つまり予想・期待をはぐらかすわけだが、予想どおりの強・弱の交替こそが、われわれの拍子感覚を麻痺させるものだからである。予定調和的な構造に関心は続かない。ヴィヴァルディは期待を裏切ることで、リズムと拍子の存在そのものを呼び起こす。

フェルマータをかなり長くとっている例として、ネーデルランド・バッハ・ソサエティの演奏をあげておく(ちなみに「長いのがよい」というのではない。フェルマータ―の究極の意味は、間を入れることで「拍子の周期を乱すこと」にあっただろうから)。


さて、また嵐が舞い戻ってくる。再びこれでもかこれでもかと三拍子。われわれは先に懲りて?フェルマータの空白を予想するかもしれない。ところが、今度は巨大なアウフタクトが休符を埋め、前のめり的に音楽がせり出してくるのである(譜例「!」)。息次ぐ間もなく音楽の怒濤の流れの中にいることに気づく。さっきは思わせぶりな間をとったが、今度は逆手にとって、音楽がフライングして斬り込んでくるのである。これはどっちにしても拍子のはぐらかしにほかならず、規則どおりの周期でやってくるものを遅くするか、早くするかの違いだけである。フェルマータは遅くし、アウフタクトは早くする。

ちなみに、ここでいう「予想」とか「期待」というのは、意識的なレヴェルにはない。われわれは会話する時でも、実は、相手の反応を予想・期待しながら言葉を発している。そして想定との距離に応じて、また言葉を紡ぐのである。これが日常である。

ヴィヴァルディがそうした心理学に精通していたかどうかはともかく、拍子とリズムを操る術に長けていたことは間違いない。そうやって音楽に渦巻く躍動感を演出していたのである。この曲がロック世代など、現代社会に受け入れられた理由もそんなところにあるかもしれない。