『巨人』の目覚め―マーラー 交響曲第1番ニ長調

マーラーの記念すべき最初の交響曲は『巨人』とも呼ばれる。その冒頭は、薄明の彼方からの響きのようである。

「おそく、力なく、自然の音のように」と指示されており、A音のかそけき音が何層にも積み重ねられている。すべて弦楽器で、低音以外はフラジオレット奏法が用いられているのが特徴的といえよう。弦楽器はオーケストラの中では中間色的で、きわだった個性に乏しい。また弦に軽く触れて弾くフラジオレット奏法は、澄んだ倍音を響かせるものの、弦の肉感的ともいえる表情からかけ離れている。無個性で無表情。音はAだけで、明るい長三和音も、暗い短三和音もない。つまり何の性格もない真っ白なカンヴァスのよう。響いてはいる、存在はしている。しかし、まっさらの状態、それは目覚めた時の曖昧模糊とした意識の状態に似ている。

その意識のカンヴァス上で何かが動き出す(譜例の□内の数字は小節数を表す)。

音はA-Eで、完全4度、あるいは完全5度となる。つまり性格音の3度をもたない「空虚な」完全音程であり、茫漠としている。まだはっきりしないが、ともかく何かが動き出したという感覚か。すると連鎖的に動きの輪が広がる。

三連符は明らかに動きを強調しており、ここで始めて長三和音が響く。クラリネットの柔らかい響きとともに、やさしい光りがこぼれるよう。目覚めた世界はあたたかい鼓動の予感がする。それに呼応するかのように、甘美なものが込みあげる。

オーボエの甲高い音で響く3度。甘美であると同時に、「痛み」もともなうようだ。心に疼くような響きは、ロマン派が追い求めた「永遠なるものへの思慕」「彼岸への憧れ」の芽生えだろうか。音程は「憧れ・情熱の」6度、二つめの音(AとCの短3度)のディミヌエンドに「死ぬように morendo」と指示されているのはマーラー的といえようか。いずれにしても、これまでの外界の動きから、内面の反応が起きたのだろうか。その時、彼方からトランペットが響く。

これは説明を要するところだろう。マーラーの幼少年時代を彩ったのは、住居の近くのオーストリア軍の駐屯地から響くラッパの音だったという。豊かとはいえず、夫婦仲もよくない家庭で、兄弟が次々に死んでいくのを目のあたりしにたマーラーの子供時代。そんな彼の生活の音が軍隊のラッパだった。その音は「懐かしい」という以前の、原初体験の響きでもあったのかもしれない。するとマーラーが大好きだったにちがいない森から、カッコウの声が響き渡る。

さらに森の奥から角笛が歌い、憧れをいっそう掻き立てる。

いうまでもなく、ホルンは狩猟の楽器であり、森を象徴する響きであり、森はロマンの世界でもあった。ホルンの甘美な二重唱はロマンの国を予感させる。しかし外へ出るには不安がつきまとう。

低弦の暗い影が忍び寄る。とはいえ、立たねばならない。励ましてくれるカッコウの鳴き声に促されるように、ついに歩み出す。『さすらう若人の歌』の第2曲「朝の野原を歩けば」からの引用である。

まるで標題音楽のような解説は本意ではないのだが、マーラーの音楽から以上のような情景がありありと「聞こえる」のも事実だろう。彼は時として描写的な領域へ歩を進めることもあった。描写そのものに興味は無いとしても、彼にとって音楽とはただの音を超えたものだっただろう。

ではここでは彼は何を描くことになったのだろう。世界への目覚めだったのか。だとしても、それはマーラーの個人を超えた「自我の覚醒」の表現だったのかもしれない。少なくとも、こうはいえないか。偉大な交響曲作曲家としての「巨人」の目覚めだったのではないか、と。