シンコペートしなきゃ意味がない―シューマン『子供の情景』第9曲、第10曲

「トロイメライ」の解読3で、沈潜的かつ静的な音楽のたたずまいをもたらすシンコペーションについて言及した。音楽の推進力を抑制するリズム法である。ではシンコペーションはいつも進行力を減じ、躍動感を削ぐだけなのか? とんでもない。

たとえば1950年代に誕生したロックン・ロールは若者のはじける生命力を表出し、以後、現在に至るまで、世界中のポピュラー音楽の震源となっている。音楽に命を吹き込んだのは弱拍(バックビート)や裏拍(アップビート)を強調するリズムにあり、明らかに、黒人音楽に起源をもつ。ポピュラー音楽の楽譜に頻出する裏拍から小節をまたぐタイも同じ発想といえる。その発想とは、シンコペートする感覚にほかならない。シンコペーションは音楽を鎮めるのみならず、素晴らしく活気づけもする。

たとえば「トロイメライ」が入った『子供の情景』の第9曲「木馬の騎士」はこうなる。

旋律は後半の4小節でよくわかるように(赤で示す)、テノールのパートにある。拍子によく合ったメロディだが、左手は第2拍を、右手のアクセントは第3拍の弱拍を徹底的に強調する。しかも右手のリズムも裏拍から入るシンコペーション。まるでロックンロールだ。

さらにバスに安定的な主音Cはなく、ずーと落ち着かない属音Gとなる。そのGは常に前の小節とタイで結ばれ、小節の頭の強拍は隠蔽される。

ここから不思議な動感が生まれる。木馬に乗った騎士(子供?)は、勇猛果敢に馬を駆り立てようとするが、馬がついて行かないのか。ぎくしゃくした動きの中に、逆に騎士のはやる心が浮き彫りにされるようだ。落ち着かない低音のGは不動で、一定しており、決して走り出さない木馬を象徴するかのように、不安定の安定ともいえる状況を支える。

実は行進曲やワルツのように規則的な周期を何の抵抗もなく反復していると、音楽の推進力は麻痺してしまう。むしろ時間的な秩序を破ることで、ダイナミズムがあらわとなる。それがシンコペーションなのである。

次の例は第10曲「むきになって」。

シューマンの最初の着想は譜例上のようだったかもしれない(ちなみに最初の2音は6度の音程で、第1曲を思わせもする)。しかし16分音符が小節線の前に飛び出し、次の音とタイで結ぶようにした。こうして、小節の頭にくるべきアクセントが先どりされ、左手の正規のアクセントとの間でぎくしゃくした流れが生じる。

誰かが耳コピし、譜面に起こしたら、上のようになるかもしれない。あるいは全体に十六分音符分後ろにずらしても同じじゃないかといわれるかもしれない。右手を小節の頭から始め、左手は十六分休符から入る。でもそれはシューマンが想定していた音楽とは違う。

飛び出した右手は小節の頭の強拍のアクセントを先どりしており、左手の正規の拍子のアクセントとの摩擦が生じる。スムーズな流れはかき消され、ある緊張が生じる。それは右手を左手が永遠に折り合わないからで、まるでわたしと世界が一致しないかのよう。心はいつも前のめり。

「むきになって」(直訳すると「まるでマジすぎ」)というのが、現実との軋轢のうちをさまようことなら、それを譜面にすると、上のようになるのだろう。

「むきになって」は身体的な意味での運動ではない。しかしシンコペーションは心の動きをも表すことができる。なぜなら、心も動きだから。何の問題もない時は気づくことがない。しかし現実で何かにぶつかると、感じられるようになる。シューマンはそれをシンコペーションでとらえたのだろう。