謎かけに託した思い―サイモンとガーファンクル「スカボロー・フェア/詠唱」

あれは高校生の時だったか、お金持ちの女友達の家にアメリカからホーム・ステイの生徒がやってきた。彼女がお土産として携えてきたのが、出たばかりのサイモンとガーファンクルのアルバム『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』だった。歓談した応接間に飾ってあったジャケットは、繊細で神秘的、そしてどこか静けさを湛えていた。

思えばあの時代、ビートルズを中心に、数多くのアーティストが競い合っていた。音楽は若者の生活の中心にあり、曲が発表されるたびに、話題が沸騰した。歴史とともに生きている感覚があった。

「スカボロー・フェア」はアルバムを集約した曲のようだった。当時はあまり深くは考えなかったけど、チェンバロを配した古風な高貴さが新しいサウンドにも響いた。もとはイギリスの伝承歌だというのは後で知った。ボブ・ディランはアルバム『ナッシュヴィル・スカイライン』(1969年)で、似たような内容の「北国の少女」を歌った。何か共通する源泉があるんだということに気づいた。それにしても、詩が一筋縄ではいかない。

謎のような詩にはいくつもの解釈がある。第1番は次のように歌われる。

  スカボローの市場に行くのかい
  パセリ セージ ローズマリー そしてタイム
  そこに住む人によろしく伝えてほしい
  かつて彼女はわたしの真実の恋人だった

4つのハーブが何を意味するかも謎。何かの呪文だともいう。それからサイモンとガーファンクル版では3つのヴァースが続く。

 2番:薄い綿織物で 継ぎ目も針目もないシャツを編んでくれ
 3番:海と浜辺の間に 1エーカーの土地を探してくれ
 4番:革の鎌で刈りとり すべてをヒースの束にまとめてくれ

あの「呪文」とともに、こうした無理難題が続き、「そうすれば 彼女はわたしの真実の恋人になるだろう」という。いや、無理難題という以上の、実現不可能事が並べられており、謎を深める。つまりそれほど「真実の恋人」となるのは難しいということか。男と女のたあいない駆け引きなのであり、真面目に受けとるべきではないとさえいわれる。ただの愚にもつかない謎かけか?

そこでこう考えてみようか。この主人公は彼女と離れているわけだが、どこにいるのだろう。「ダニー・ボーイ」や「ミンストレル・ボーイ」など、イギリスやアイルランドの民謡でよくある設定を考えると、場所が見えてくるようだ。すなわち、主人公が立っているのは戦場ではないか。つまり恋人を引き離したのは戦争だったのではないか。

だとしたら、男が戦場から故郷に、彼女のもとに戻ることはできるのだろうか。あのダニーが帰ってくるという希望は、たとえわたしが墓の中に眠っても、永続すると「ダニー・ボーイ」では歌われる。「スカボロー・フェア」でわたしが帰る可能性も、あの無理難題、不可能事が示すように、無限にありえないに違いない。

しかしどんなに希望のない状況にあっても、祈ることはやめないで欲しい。その思いが通じて、万が一、奇跡が起きるかもしれない。そしたら二人は愛し合い、もとのように暮らせるだろう。個人を犠牲にする社会に住みたくはない。兵隊には行きたくない。しかしそれも社会で生きている以上、できない。人間社会に翻弄されるわたしたちにできるのは、ただ祈るだけ。でも、ひょっとしたら、山をも動かすかもしれない。

「スカボロー・フェア」には戦争反対の叫びとか、プロパガンダ的な主張は皆無である。しかしその思いの深さははかりしれない。ポール・サイモンが反戦的な自作の「詠唱」を原曲に織り込んだのは、やはり卓見だったのだろう。下の譜面で、上が「スカボロー・フェア」、下が「詠唱」である。

もとの歌のフレーズの合間に、これも声高ではないが、戦場を描写する旋律が聖歌のように響く。楽譜を見るとよくわかるのだが、ホ短調のようでありながら、Cに♯がつく。あるいはホ短調なら当然シャープするべきDは本位のままである。いわゆるドリア調である。

ドリア旋法は「グリーン・スリーヴズ」などでお馴染みの、イギリス民謡でよくある響き。短調の闇の中で♯1個分だけのほのかな明かりが灯る。