出会いの機微―サイモンとガーファンクル「四月になれば彼女は 」

春は新たな恋の季節。シューマンの『詩人の恋』第1曲「美しい五月」がすぐに思い浮かぶ。サイモンとガーファンクルの「四月になれば彼女が April Come She Will」もそんな歌。五月と四月、ドイツとアメリカで、春の季節感の違いはあるけれど、ポール・サイモンの音楽も実に美しい。そして詩は思わせぶり。

  四月 来るだろう 彼女 雨で川の水が豊かに高まるころ
  五月 一緒にいるだろう 再び ぼくの腕の中で眠る
  六月 ちょっと様子がおかしい 彼女 夜な夜な歩き出す
  七月 どこかへ消える 何もいわないで
  八月 死ぬよきっと 彼女 秋風がひんやりと冷たい
  九月 思い出しているだろう 新鮮だった恋も今は色あせ

彼女は一体何の象徴だろう?と考え出すと、想像が膨らむ。ただ日本と違い、アメリカでは6月が卒業、新学期は9月から始まることが想い起こされれる。

春の訪れとともに、恋仲になった二人。ただし五月に「再び」とあることから、これまでもくっついたり離れたりしてたのかも。6月に彼女はそわそわし出す。卒業の後に夏休が続き、二人の関係は決定的になる。彼女は別の学校へ進学するのかな。8月を境に、二人の環境は激変し、別れを余儀なくされる(「死ぬ」というのは、もはや、これまでのような、なあなあの関係もなくなったということか)。

季節がもたらす生命の息吹と、学期の区切りという人為的な制度とのくい違い。そこに別れがある。でも制度によって切れた関係なら、それほどでもなかったのかもしれない。だったら新しい出会いもあるに違いない。四月はまた来る。それが人生なのかな。