光から闇へ通じる密かな近道―ショパン「雨だれ前奏曲」2

「雨だれ前奏曲」は三部形式で書かれている。ABAという形で、音楽のまとまりがよく、ショパンも好んだ形式である。「雨だれ前奏曲」の場合、Aはこんな音楽だった。

お馴染みのメロディである。右手に旋律、左手に伴奏のようだが、よく聴くと、そう単純ではない。左手にはもちろん持続するAsがある。しかし旋律に親密に寄り添うような音もある。それらを拾い集め、右手のパートだけを書き直してみると、譜例の上の青っぽい譜例のようになるだろう。

実は伴奏の中にも旋律的な動きがあり、右手のソプラノと三声の合唱のような声部書法が隠れている。しかし次の部分(譜例下)では左手の線的な進行は和音の中へと後退・溶解し、右手がソロのように歌う。ショパン的なシングル・トーンの旋律から、虚飾のない感情の襞をのぞかせる。音楽は短調へ傾く。単純なメロディを磨き上げる、さりげなくも細やかな筆致とでもいうべきか。

こうして執拗に繰り返されていた音が余韻を残しながら、そのまま中間部Bに入る。Aの無邪気ともいえる明るさは、短調へのかげりによって、むしろいっそう儚い光を帯びたのかもしれない。しかし、かげりは予感だったのか、今や本物の暗さがやってくる。しかも何の抵抗もなく、あっという間に、である。持続する反復音は光から闇への近道だった。

執拗に繰り返されていたAsはGisとなって継続されるが、鍵盤上は同じ音、すなわち異名同音である。フラット5つの変ニ長調からシャープ4つの嬰ハ短調への推移は、要するに、同主短調への転調を意味していた(変ニ長調に対する変ニ短調の関係。ただし変ニ短調では♭が多すぎるので、嬰ハ短調に読み替代えた)。ノクターンヘ長調作品15の1やバラード第2番でも、ショパンは同じ調関係の強いコントラストをドラマティックに演出した。ここではうごめくような低音から不気味に何かが近づくようだ。ショパンの初版譜を引用してみよう。

ショパンはソット・ヴォーチェで囁くように中間部Bを始め、クレッシェンドを書き込んだ。そしてさらに2段目にもcres.を指示し、3段目のフォルテ2つで音楽を爆発させた。つまり、12小節にもわたる、かなり息の長いクレッシェンドを望んだのだろう。

しかし流布しているいくつかの楽譜では、持続するクレッシェンドはディミヌエンドやpによって寸断されている。たとえば1879年出版のペータース版では譜例の青のような指示が加えられたようだ。同じ傾向はウニヴァーサル版(1905年)、それにコルトー版(1926年)にも受け継がれた。おそらくは、ピアノという音が伸びない楽器を考慮した結果なのだろう。しかし何かが迫ってくるような緊迫感の高まりは、一続きの漸次的なクレッシェンドでしか表現できないのではないか。そしてショパンが望んだのもそんな効果ではなかったか。

「何かが迫ってくる」。そう、そいつは、無機的に、無感情に「来る」のである。途中で息を潜めたり、ましてや、ためらったりはしない。機械のように歩を進め、近づいてくる。音楽的にいえば、この部分は大きなドミナントであり、嬰ハ短調への解決を待つ。「あいつ」が闇の中から全貌を現すように、常識的にはフォルティッシモで主和音Cis・E・Gisが轟いたはずだろう。

ところが鳴り響いたのは、同じシャープ4つのホ長調の主和音E・Gis・Hだった! これは何を意味するのだろう。明らかにはぐらかしである。試しにCis・E・Gisで弾いてみるとよい。あまりにも当たり前である。予想されたものがそのまま出てくるからである。そこに真の恐怖はない。予想や想像を超えたものの出現こそが、ぞっとするような戦慄をもたらすのである。しかし明るい長調の響きとは。この意外性には、まだ何のことかはっきりわからない、あるいはわかりたくないという心理作用がはたらいているのかもしれない。むしろ正体はあとでじわじわ明らかになる。ショパン、なかなかの心理学者ではないか。

「雨だれ」どころではない。ここでは天使と悪魔の世界が並存しており、共通する持続音で密やかに繋がっているのである。