現実は夢、夢は幻―ショパン「マズルカ」イ短調作品17-4

クラシック・ファン、いや音楽フォンに大人気のショパンである。甘美な夢をピアノで紡ぐ音詩人。だが、個人的には、昔からショパンの音楽には何か危険なものを感じていた。何だろう。

たとえば『前奏曲集』作品28第4曲ホ短調である。たゆとうような右手の旋律の下で半音階で和音が滑る。黄昏の深々とした青が広がる。

断片のような「前奏曲」は、夜の帳が降りる前の、束の間のブルー・モーメントにふさわしいといえるかもしれない。だがそこから広がる漆黒の闇には星の瞬きもないようだ。それにこのプレリュードが呼び込んだ夜はいつか明けるのだろうか。朝の光が闇を追い払うことはあるのだろうか。不安になる。

ショパンの音楽には危険な香りがある。

これがマズルカ?

そんなホ短調前奏曲とそっくりに見えるのが、イ短調のマズルカ作品17-4である。

曲は4小節のつぶやくような導入から始まる。AとFの内声でH-C-Dと音が動くが、これらは冒頭の右手の旋律の最初の3音であることはいうまでもない(譜例 赤)。それとなく、来たるべき旋律を暗示しているわけだ。

それにしても、これがイ短調? 旋律を支えるハーモニー(5小節目)は下からA・D・Fである。コード・ネイムでいうと、Dm/Aということになる。Dm? つまりイ短調のⅣの和音である。バスがA? つまり第2転回型である。Ⅳの和音の第2転回型で曲を始める? 古典的な作曲法としては完全にアウトだろう。

和音の構成音が少しずつ下にずれていく方法論は、ホ短調プレリュードと同じである。いや、プレリュードの場合はG・H・E(Ⅰの第1転回型)で始まるから、まだ「まし」だ。作曲の先生の落胆といらだちはマズルカほどではあるまい。

ここで基本的なことを確認しておこうか。三和音は転回が進むほど(Cなら基本形C・E・G→第1転回型E・G・C→第2転回型G・C・E)、機能が希薄化する。機能和声としてのアイデンティティを喪失し、ただの色彩と化す。特に第2転回型として使われる和音として、一般的なのは、Ⅴの和音である。それがⅣの第2転回型から始めるとは。

しかもそこからハ長調をかすめて(第7-8小節)、意識が遠のくような半音階の下降から(第9-11小節)、ようやくイ短調のドミナントに達する(第11-12小節)。しかし解決はない。またしても同じハーモニーが還ってくる。イ短調の和音が響くのはやっと第20小節である。

この音楽を何というべきか? 「マズルカ」とはほど遠いとしても、ただいえるのは、現実に足を下ろさない「夢」のような音楽ではないかということである。

これがマズルカ!

そしてイ長調に転じて中間部が来る。これこそマズルカである。

小節の頭の拍に短いリズムを置き、拍子を不安定化する舞曲の常套手段はいうまでもない。何よりも特徴的なのは、左手の執拗なA-Eの5度のドローンである。民族音楽の響きそのものであり、大地に足を踏みしめたアーシーな音楽に見える。

まさにポーランドでマズルカが踊られた時はこんなではなかったのか。

ここで前の部分との対比がきわだつ。都会のクールな空気が漂う主部に対して、中間部では田舎のにぎやかなざわめきが飛び交う。もともと踊りは独りで舞うのではない。集団で、あるいは踊り手・演奏者・観る側が一体化した集いでの催しなのである。ところが主部を通底しているのは、凍りつくような孤独である。

このコントラストは何なのか。

気になるのは、作品17の「4つのマズルカ」はショパンが故郷を離れ、パリに移り住んだ時に作曲した作品だということである(1832-3年)。特に第4番はかつて作曲した部分も使われたとか。曲に並置するように見える「都会と田舎」「孤独と集団」はそういう事情と関係があるのか。

底知れない虚無

確かに中間部は典型的なマズルカといえよう。ところが不思議な指示がある。「弱音でp」そして「甘美に dolce」と記されているのである。譜面を見るだけで、これが「うるさい」音楽であることがわかるはず。音の数は多いし、繊細なシングル・トーンはなく、重音でがんがん弾かれる。特にピアノの低域での5度はよく響く。

ところが「弱音で、甘美に」なのである。音楽の種類とピアノの書法とまったく矛盾する指示である。だからこそ重要なのである。ショパン独自の、そして彼が真に欲する効果がそこにある。

ひとつの解釈である。「弱音で」というのは、実際にその音楽が鳴っているという意味ではない。現実の音として聞こえるというのではない。そうではなくて、頭の中で、あるいは心の中で、かすかに響いているイメージだろう。

そして「甘美に」は作者の個人的な思いの反映だろう。おそらくは猥雑なまでにさわがしい音楽だったはずだ。笑い声や怒鳴り声も交錯したかもしれない。でも今のわたしにはそれは「甘美」なのである。なぜか。この音楽は思い出の中にあり、記憶はすべてを美化するからである。かつて喧噪にすぎなかった日常の一コマが、今、甘美に感じられる。そういう経験がないという人がいるだろうか。

われわれ日本人だったら、かつて経験したお祭りのどんちゃん騒ぎが、懐かしくも愛おしく思えることはないか。

そう感じさせるのは、おそらくはショパンが育った故郷とマズルカが深く、密接に結びついてたからだろう。自分を形成してくれた土地を、今、決定的に離れてしまったがゆえに、寂しくも、懐かしく、愛なしに想い起こすことができない時、「強くf」とは書けなかった。「弱音で、甘美に」なのである。

つまり中間部は故郷喪失者の心の響きなのである。同時に想い起こされる。主部の繊細で不安定な音楽もまた、足場をもたない浮遊するような音楽だった。まるで自己という確固としたアイデンティティを模索するような。わたしはそれを「夢」のようだと書いた。

しかし中間部の「弱音で甘美な」故郷の響きも夢だったのである。しかもそれはもはや幻だった。現在のわたしは夢を見ることができるかもしれない。だがしがみつきたくなる過去はもはや幻なのである。

「マズルカ」作品17-4は故郷もアイデンティティも失った現代人の心の原風景なのかもしれない。