慈雨が心に降り注ぐように―モーツアルト コンサート・アリア「どうしてあなたを忘れられよう」K.505

facebookのある投稿へのコメントで、「音楽に感動するとは、音の波動とわたしの心が共振することではないか」といったことを書いた。ということは、わたしの心も振動していなければならない。心とは振動そのものなのかもしれない。

ところが、いつからか、音楽を聴きたいという欲求が薄まったように感じる。心の振動が減衰したのか。いつごろからだろう。どうもロシアのウクライナ侵略のあたりからか。一般人をわざと標的にした極悪非道の犯罪である。「戦争とはそんなものだ」としたり顔をすることもできるだろう。しかし、歴史を学んでいないどころか、逆行するようなおぞましさが展開している。そんな映像が毎日流れ、ウォッチせざるをえない日常の中で、心の一部が死んだのかもしれない。

そんな時に、モーツァルトの音楽を聴いて、心に慈雨が降り注いだようだった。コンサート・アリア「どうしてあなたを忘れられよう」K.505である。

愛のデュエット

曲はナンシー・ストレース(1765-1817年)のために書かれた。珍しく独奏ピアノが加えられ、モーツァルト自身が弾いたものと思われる。

ソプラノとピアノは親密に寄り添い、絡み合い、時に抱擁を交わすような書き方がされている。アインシュタインにいわせると、コンスタンツェにはそんな曲の雰囲気がわかるはずもなかったろうと書いている。しかし吉田秀和氏は、絶対、感づいただろうとも書いている。

詩はオペラ・セリア『イドメネオ』(1781年)がもとになっている。オペラの物語はこうである。

戦場からの海の帰路についたイドメネオは激しい嵐に見舞われた。そこで、彼は海神ネプチューンに約束を誓った。故郷に辿り着くことができたら、陸で最初に出会った人物を生け贄に捧げるというのである。一行は無事に到着したが、イドメネオが最初に遭遇したのは、何と息子イダマンテだった。息子を殺すのは何とも忍びない。ネプチューンの怒りを恐れ、イダマンテと彼を愛するエレクトラは遠国へ逃れることにした。しかし、実は、彼には相思相愛のイリアという女性がいた。

「どうしてあなたを忘れられよう」は故郷を離れるイダマンテがイリアに歌うアリアとなる(第2幕第10番)。だが、実は、オリジナルにはなかった。『イドメネオ』が1786年にウィーンで再演される時、追加され、別のアリアと差し換えられたのである。これがレチタティーヴォとロンドK.490だった。イリアはエレクトラと去るようにイダマンテを諭す。これに対してイダマンテはわたしの最愛の人はほかならぬあなただと告白する。二人の心が引き裂かれる状況が鮮明となった。レチタティーヴォとロンドの歌詞は以下のようになった。

  レチタティーヴォ
どうしてあなたを忘れられよう
彼女のものになれと 
それでわたしに生きろというのですか
「最愛の人 わたしの固い決意を揺るがそうとしないでください
この恐ろしい打撃はあまりにも大きな悲しみでした」(イリア)
わたしには生は死よりつらい
あなたは最初に愛した人 そして最後の人になるでしょう
さあわたしに死を! 恐れはしない
しかし どうすればひとつの炎でみずからを温め
別の炎に愛情を惜しみなく与えることができるでしょうか
ああ わたしは悲しみで死ぬでしょう

Ch’io mi scordi di te? Che a lei mi doni
Puoi consigliarmi?
E puoi voler ch’io viva?
“Non congiurar, mia vita,
Contro la mia costanza!
Il colpo atroce mi distrugge abbastanza!"(Iria)
Ah no, sarebbe il viver mio di morte
Assai peggior! Fosti il mio primo amore,
E l’ultimo sarai. Venga la morte!
Intrepido l’attendo, ma ch’io possa 
Struggermi ad altra face, ad altr’oggetto
Donar gl’affetti miei,
Come tentarlo? Ah! di dolor morrei!

  アリア(ロンド)
恐れないでください 最愛のひと
心はいつもあなたのものです
もはやこんな苦しみに耐えることはできません
わたしの魂は消えてしまう
あなたはため息をつくの? ああ 何という悲しみ!
これがどんな瞬間か考えさえすれば!
神よ! わたしには言葉がありません
残酷な星 無慈悲な星
どうしてそんなに厳しいのか?
善良な魂よ ご覧ください
この瞬間のわたしの苦しみを
教えてください 忠実な心が
これほどの苦痛に苛まれていいのか

Non temer, amato bene,
Per te sempre il cor sarà.
Più non reggo a tante pene,
L’alma mia mancando va.
Tu sospiri? o duol funesto!
Pensa almen, che istante è questo!
Non mi posso, oh Dio! spiegar.
Stelle barbare, stelle spietate,
Perché mai tanto rigor?
Alme belle, che vedete
Le mie pene in tal momento,
Dite voi, s’egual tormento
Può soffrir un fido cor!

モーツァルトはコンサート・アリアK.505でこの歌詞をそのまま借用した。ただしレチタティーヴォにおけるイリアのパートはカットされた(上記の歌詞では対訳「 」原詩" "で示す)。

受け継がれたテーマは、明らかに「愛の二重構造」である。エレクトラとの公に認められた、しかし一方的な愛と、秘められた、お互いの心を求め合うイリアとの愛の葛藤である。オペラでは猛り狂ったネプチューンは最終的に「真実の愛」を称揚し、イダマンテは王妃イリアを娶り、新しい王となる。イドメネオは王座を去る。めでたし、めでしたしの大団円。

似た状況は当時のモーツァルトにもあったようだが、実生活はオペラをほど単純ではない。ウィーンでの『フィガロの結婚』の上演のさい、イギリスのソプラノがスザンナ役を歌った。ナンシー・ストレースである。明らかにモーツァルトは音楽家として、女性として、ナンシーに惹かれたようだった。

モーツァルトはすでに1782年にコンスタンツェを妻としたし、84年にはナンシーも結婚した。彼女の結婚生活はうまくいかなかったようで、夫の暴力のためすぐに別居を余儀なくされた。だが婚姻関係は解けなかった。

『フィガロ』の公演が終わって、彼女がイギリスに帰る時、モーツァルトはあふれる思いを音楽に託したようだった。原曲K.490ではロンドで独奏ヴァイオリンが華麗に活躍する。それは友人のヴァイオリニストに託された。しかしK.505ではモーツァルトみずからの楽器であるピアノが登場する。

有名なモーツァルトの言葉がある。「ぼくは詩人ではない。画家でもない。でも音楽家だ」。だから、音楽でなら、愛が表現できる。

循環と発展

レチタティーヴォとアリア「どうしてあなたを忘れられよう」K.505のアリア部分は「ロンド」と名づけられているが、アンダンテとアレグレットの二つの部分から成る。ロンドは同一主題(ロンド主題)が反復される中で、異なるエピソードが挿入される「循環」形式である。だがここには後半でテンポ・アップする「発展」形式の発想もあるようだ。

アレグレットは同一主題が3度回帰し、ロンド的といえる。だがアンダンテとアレグレットで歌詞の重複は多く、楽想も微妙に関連づけられている。それだけに、歌詞の選択が問題となる。K.505ではかなり複雑にテキストを切りとり、継ぎはぎされているのである。

ロンドの詩は大きく4つの部分から成るが、それぞれの日本語の冒頭ラインで現れる順番を記すと、下のようになる。なおアレグレット部分はイタリックで強調してある。つまり以下がアレグレットとなり、新しい歌詞の部分に入るのだが、その後、アンダンテ部分の歌詞も頻繁にとり込まれる。

1・3・ 恐れないでください 最愛のひと……
2・   あなたはため息をつくの?……
4・ 残酷な星 無慈悲な星……
10   善良な魂よ ご覧ください……

たとえば、前半の第3スタンザ「残酷な星」以下は、後半にも2度繰り返される。しかし特に印象深いのは第1スタンザ「恐れないでください 最愛の人」以下だろう。4行目の「わたしの魂は消えて mancando しまう」の ところでモーツァルトは驚くべき音楽を書いた。

ソプラノがオーケストラから離れて宙を舞う。そして「消える mancando」から連想される「死」の修辞的な音楽語法である半音階で旋律線がなだらかに弧を描く。ピアノがそれとぴったりと一体化する。アンダンテとアレグレットでは、テクスチュアとハーモニーが若干違うが、後半の部分を引用しておこう。

変ホ長調からの突然の変ハ長調への転調である。このEsからCesの幻惑的な「陥没」は典型的なロマン的3度転調だが、そこからなだらかに、しかし宿命的に変ホ長調のドミナントに帰還する。おそらくは『トリスタンとイゾルデ』が壮大に謳い上げる「愛の死」より、甘美さと痛切さはいっそう深く織り交ぜられている。そして儚さが沁みる。

以上も含めて、ここでコンサート・アリア「どうしてあなたを忘れられよう」K.505 全曲を聴いて、確認しておこう。テレサ・ベルガンサの古典的ともいえる歌唱もいいが、スコアを見ることができるエディト・マテイスのソプラノ、レオポルト・ハーガー指揮・ピアノ/モ-ツァルテウム管弦楽団の演奏である。

解決はどこに

それにしても発展形式でもあるアンダンテ-アレグレットの二部構造に、真の「発展」はあるのだろうか。もっといえば「解決」「結論」はあるのか。たとえば『フィガロの結婚』の伯爵夫人のアリア「美しい時はどこに Dove sono」なら、前半アンダンティーノの「現実の悲惨」は後半アレグロの「希望」に流れ込む。

ちなみに、もとになったK.409も二部構造だったが、「解決」は弱い。運命のむごさを神に訴えるだけなのである(第4スタンザ)。あくまでも他力本願なのである。イダマンテとイリアが置かれた状況にあっては、愛が現実的に成就されるにはあまりにも深い溝があることを物語るようだ。

しかしK.505では、モーツァルトは新たな展望を見い出したようだ。それはアレグレットで第3スタンザ「残酷な星よ」を再び呼び起こし、音楽が暗転した後、さらに第1スタンザを回帰させることで実現した。これはK.490にはなかった、ここだけのアイディアである。以上の部分を楽譜で確認してみよう(調性を小文字青=短調、大文字赤=長調、ドイツ語で示す)。

過酷な運命への訴えの後で、眼差しは現実へ、そして内面へ向かう。アリア冒頭のスタンザはこうなる。「恐れないでください、最愛のひと。心はいつもあなたのものです」。他力本願でないある種の「解決」がここに示唆されているといえるかもしれない。この後あの「心が消える」という妖しくも哀切な死の淵を音楽がよぎる。

「心はいつもあなたのものです」。現実はどうしようもない。確かに。しかし、その現実とて、わたしの心を根幹を揺るがすことはできない。時空を超えて、わたしの心はあなたのもとにある。

厳しいこの現実から内面への降下の意味をシュワルツコプフはよく感じていたようだ。無情な星・運命を告発するハ短調から変イ長調へ転調したところで、彼女は声の色を変える。「心はいつもあなたのものです」という思いのほとばしりである。こうでなくちゃ。

再び3度転調の魔法

そう、この3度転調こそ、古典派の切り札のひとつだった。モーツァルトが愛用したことはブログ内の別の項目でも書いた(「その時、魅惑的な瞬間が訪れる-モーツァルトにおける古典的な3度転調」)。彼は楽曲の肝ともいうべきところでそれを投入した。

ちなみに「心が消える」のところは長調から長3度下の長調へ、♭×4方向への遠隔転調である。夢のような効果をもつがゆえに、ロマン派が好んだ。ロマン的転調と呼んだゆえんである。だが「残酷な星」からは短調から短3度下の長調へ転調する。平行長調の下属調であり、♭がひとつ増える方向への近親調関係内にある。だから古典的な転調といえる。

もうちょっといっておけば、この古典的な3度転調(たとえばハ短調c→変イ長調As)は、効果として、平行調転調(ハ短調c→変ホ長調Es)よりも弛緩をともない、長調の光はいっそう柔らかさを帯びる。ただ同主調転調(ハ短調c→ハ長調C)ほど強烈な光を発することもない。これはベートーヴェンが「暗黒から光明へ」で用いた転調であることはいうまでもない。

たとえば前のブログでも引用したピアノ協奏曲ハ長調K.503は、古典的3度転調のもっとも美しい例といえる。ただしここから何を感じるか。器楽曲だから歌詞はない。だがK.505では歌詞が表現を示唆するはずである。

ここで、もう一度、内田光子女史の演奏・映像で音楽を確認しておこう。譜例の少し前から。

この曲の最大の聞きどころであることは間違いない。至福の時だが、ピアニストのすべてがさらけ出される恐ろしい瞬間ともいえるかもしれない。似た例を、思いつくままに、音源だけ列挙しておこう。まず弦楽四重奏曲イ長調K.464第3楽章(嬰ヘ短調fis→ニ長調D)。

ここではポリフォニックで高密度なテクスチュアから、3度落ちて、ホモフォニックで平明な音楽が広がる。険しい山から急に平原に出るような。次はピアノ協奏曲第23番K488の第3楽章(嬰ヘ短調fis→ニ長調D)。転調したところでクラリネットのオクターヴが出る。印象的な頁である。

さらにピアノ四重奏曲変ホ長調K.493の第3楽章。この曲ではハ短調から変イ長調へ向かうカデンツは少し長めとなる。やや入念に来たるべき長調が準備されているのである。

もちろんこのほかにも似た例はいくつもあるが、文脈に応じて用法は少しずつ異なる。

それにしても、上にあげた曲はいずれもケッヘル番号でいうと400代である。全曲での統計はとっていないが、この時代に集中するとしたら、モーツァルトに何があったのか。そういえば、典型的な例として前のブログでもあげたミサ曲ハ短調(キリエ)もK.427である。

音楽の浄福

モーツァルトの音楽の眼目ともいえる3度転調。前述したように、多くの器楽曲で用いられているが、あくまでも表現は抽象的である。しかし「どうしてあなたを忘れられよう」K.505では歌詞があるため、表現の根底にある本質が暗示されているかもしれない。

それは過酷な運命のもとにあっても「信じる」ことだった。「残酷な星、無慈悲な星」から「わたしの心はいつもあなたのものです」への転換である。

たとえばミサ曲ハ短調K.427では「キリエ」から「クリステ」への移行で3度転調が起きるのだった。これは「キリエ(主よ憐れみたまえ)」が残酷で無慈悲だというのではない。ただし厳格な対位法で織り上げられた短調のキリエが厳粛に聳え立つのに対し、ソプラノ・ソロに委ねられた長調の「クリステ(キリストよ憐れみたまえ)」が聴く者の心に親密に、ぴったりと寄り添うのは間違いない。「わたしの心はいつもあなたのものです」というかのように、である。

なお、似た構図は先にあげた弦楽四重奏曲イ長調K.464のフィナーレにも垣間見られた。

要するに、3度転調は外から内への転換なのである。

「外から内への転換」。これを別の言葉でいえば「祈り」ということになるだろう。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』で祈りについて書いている。

……また祈りとは人間的心情の威力は自然の威力よりいっそう偉大であるという確実性であり、心情の欲求はあらゆる命令を発するところの必然性であり、世界の運命であるという確実性である。祈りは自然の運行を変える。祈りは自然の法則と矛盾するような結果を神がもたらすように規定する。祈りとは人間の心情が自分自身に対して―みずからの本質に対して―執る態度である。

『キリスト教の本質』舟山真一訳、1937年、岩波文庫上巻、259頁.なお、若干、文言を代えさせていただいた箇所がある。役者の了解を請う。

「信仰は山を動かす」とキリストはいったが、祈りにおいては物理的世界の事象はもはやどうでもいいのだろう。なぜなら、わたしはすでにそれを超越しているからである。フォイエルバッハは続けて書いている。

祈りにおいては人間は願望に制限が存在していることを忘れており、そしてこの忘却の中で浄福を感じている。

モーツァルトの音楽に漂う霊気とは、この「浄福」なのかもしれない。