酔っぱらいのシンコペーション―マーラー『大地の歌』

『大地の歌』についてのちょっとしたトピックをひとつ。厭世家の酔っぱらいの歌である。『大地の歌』第1曲「大地の哀愁に寄せる酒の歌」。歌の中で昔から好きなところがあった。

曲の主人公は知っている。「生は暗く、死もまた暗い」ことを。だが、それが何だというのだ。「盃になみなみと注がれた一杯の酒は、この世のすべての王国にも優る!」。酒への礼賛が続く。生と死という闇を吹き飛ばすものがあるとしたら、それは酒だ。酒は、ある意味、光だ。だからひねもす呑もうではないか。

だが光は時として闇の底無しの暗黒を暴き出す。

中間部で、大地の永遠が賛美される。しかし、後半、一匹の猿が月光に映し出される。

Seht dort hinab !
Im Mondschein auf den Gräbern
Hockt eine wildgespenstische Gestalt !
Ein Aff’ist’s ! Hört ihr, wie sein Heulen
Hinausgellt in den süßen Duft des Lebens !

そこを見下ろせ!
月明かりの墓の上の
おぞましくも亡霊のような姿!
それは一匹の猿! 聴け その遠吠えが
生の甘美な香りの中で響くのを

猿の狂おしい姿は生への渇望そのものにほかなるまい。その叫びは、かぐわしい生に酔いしれた歓喜のほとばしりであり、死から無限に飛翔したかのようだった。だが猿の足が踏みしてめているのは、冷たい墓石にほかならない。しかもその姿は亡霊のよう。何という光景。

生と死はここで究極に離反し、しかも一致するのだった。生のきわみにおいて出会うのは死だった。まさに「生は暗く、死もまた暗い」を見て、聴いてしまったのである。それは酒に溺れた感覚がなせるわざではなかったか。そこから酒で逃れようとしたのに。そこでどうする?

「さあ、酒だ Jetzt nehmt den Wein!」。今こそ、その時だ。盃をあおるんだ。酔っぱらいは酒に救いなどないことを追い払うように、盃をとる。生も死も、どうでもいい。すべてどうでもいい。

この「さあ、酒だ」が好きだった。マーラーはこう作曲している。テノールの指示には「フォルティッシモで、荒々しく」とある。

倒れ込んで「盃を!」

テノールのパートを拡大してみよう。

nehmt (酒を「とれ」)のところにタイがある。思ったとおりだった。ここでタイがかかり、後の小節の1拍目(強拍)が前の小節の3拍目(弱拍)へと前倒しになった。こうしてアクセントが移動し、拍子の規則性が惑乱させられる。

これがシンコペーションである。

たとえば同じ箇所を、譜例上のように、3拍子に合ったリズムの書き方をすると、ダメなのである。

スコアを見ていただくとわかるように、前の部分「生の甘美な香り」の「生 Lebens」でテノールは最高音変ロを4小節引き延ばし、クライマックスを築く。だが、次の瞬間、9度下の変イまで急降下し、崩れ落ちる。異様な光景を目のあたりにして、倒れ込むかのようだ。そこから体躯を持ち上げるようにして、また「酒だ」とわめく。

拍子にあった書き方だと何がダメなのか。歌詞で表現される主人公の「心」と拍子で表される「身体」が一致してしまうからである。だがそれらがずれることで、盃をとる体勢は崩れたままなのに、逸る心が酒を求めるという、ちぐはぐさが生まれるのである。

これこそ真の呑んべえだ。そこから自暴自棄というより自己破滅的な主人公の姿が生まれる。

心と身体のシンコペーション

これはシンコペーションではなく、ヘミオラだという指摘もあるだろう。

ヘミオラとは3拍子に2拍子が混入することをいう。確かに問題の2小節は3拍子の音楽に2の単位が入り込んでいる。ヘミオラは、中世の舞曲に起源をもつ組曲では、終止の前に現れるのが普通である。これは区切りの前に不安定な要素を入れて、そこから立て直し、安定する効果を高める。安定、規則性はそれだけでは惰性化するが、一時的に乱すことで、正規の流れが活性化されるのである。

このようにヘミオラは拍子の周期性への「異物」として機能し、音楽の流れをぎくしゃくさせる効果がある。だからシンコペーションを「音楽の規則的な進行に抗する不規則な要素」と定義づければ、ヘミオラをもその一種といえる。シンコペーションの効果をもたらす音楽現象は多種多様で、ヘミオラもそのひとつだということである。

拍子は肉体から、リズムは言葉から生まれるといわれる。歩行や踊りなど、身体の運動には周期性がともなう。それに対して、詩のリズムは言語から生まれる。だから拍子とリズムは常に一致するとは限らないが、言葉のある音楽では、一般的に、詩は音楽に従属する。

とはいえ詩と拍子がぶつかる、すなわち言葉が突出する場合がある。だが『大地の歌』の「さあ、酒だ!」は、言葉がもつ言語としてのリズムが優先したのではない。言葉が表す意味世界、すなわち心の叫びが音楽の規則性を突き破ったのである。

酔っぱらったあげく、心と身体がばらばらになってしまった。思いが1拍、前のめりになってしまった。心と身体のシンコペーション。きわめてマーラー的な発想だったかもしれない。