「木星」に思いをはせて―平原綾香「ジュピター」

大分前のある時、作業をしながら、聴くともなくFMをつけていた。なじみのあるメロディが流れてきた。ただ曲名が出てこない。「イギリス民謡か何かか……」。

突然、曲名が浮かんだ。ホルストの「木星」じゃないか(中間部のエオリア風の旋律)。この曲、自著『音楽に何を聴くか』でみずから分析までしているのに!すぐにわからないとは。恥ずかしい限り。

それに曲には歌詞がついていた。ちょっと気になって調べてみた。イメージが広がった。 

わたしたちは独りじゃない

ホルストの『惑星』第4曲「木星」の旋律で歌われる詩を引用しておこう。作詞は吉元由美さん、曲の発表は2003年である。

Every day I listen to my heart ひとりじゃない
深い胸の奥で つながってる
果てしない時を越えて 輝く星が
出会えた奇跡 教えてくれる

Every day I listen to my heart ひとりじゃない
この宇宙の御胸に 抱かれて

私のこの両手で 何ができるの?
痛みに触れさせて そっと目を閉じて
夢を失うよりも 悲しいことは
自分を信じてあげられないこと

愛を学ぶために 孤独があるなら
意味のないことなど 起こりはしない

心の静寂に 耳を澄まして

私を呼んだなら どこへでも行くわ
あなたのその涙 私のものに

今は自分を 抱きしめて
命のぬくもり 感じて

私たちは誰も ひとりじゃない
ありのままでずっと 愛されてる
望むように生きて 輝く未来を
いつまでも歌うわ あなたのために

「ひとりじゃない」がキーワードといえるだろう。自分を信じることの大切さ、われわれは皆、大きな愛に抱かれているとも歌われている。詩はあるテーマへ明確にフォーカスしているわけではないが、生きることの尊さが全体からひたひたと浮かび上がる。

だからだろう「ジュピター」は2004年の中越地震から徐々に脚光を浴び、応援ソングとして人々の心の支えになった。

曲のタイトル「ジュピター」は、いうまでもなく、「木星」からメロディを借りてきたことに由来するのだろう。ただ歌詞には直接「木星」という言葉は出てこない。しかし「果てしない時を越えて輝く星」「この宇宙の御胸に抱かれて」といったラインが、時空を超えた壮大な世界を連想させるのも事実である。

だからタイトルはただの借用というより、宇宙的な眼差しと展望を連想させる。そこで想像がいっそう翼を広げる。

すべては繋がっている―物質世界のありよう

木星とわたしが繋がっているとはどういうことか。この世のものはすべて繋がっているということか。なぜか。

わたしはここに「いる」。木星も宇宙に「ある」。「存在する」形式に変わりはない。同じ「時間」を呼吸しているという事実も変わりはない。そう考えるなら、万物はすべて同じ形式、すなわち同一の空間と時間を共有することで、繋がっているのである。

では別の存在形式があるのだろうか。たとえば死後の世界である。誰もそこから帰った人はいないのだから、その世界を知る由もないが、しかし、もし死後の世界が存在するとしたら、そこは空間も時間も超越しているかもしれない。

古代ギリシャ人ならそれをイデアの世界と呼んだだろう。われわれはそこから生まれ落ち、死において、そこへ帰って行くという。キリスト教なら天国か。そこでは物質世界とは別の法則がはたらくに違いない。

知らないからといって、そんな世界を否定できようか。われわれの存在形式以外の世界もあるかもしれない。そう考えると、わたしと木星は、あるいはこの世のものすべては同じ世界に属していることが実感できるはずではないか。

ビッグバンから宇宙が始まったとするとしたら、その時、空間と時間が生まれたのだろう。それ以来、われわれはみな同志、仲間なのである。みんな繋がっている。

まだ小さかった頃、この世界・宇宙は無限の物質でできているのだろうと想像していた。しかし実際はそうではなかった。元素記号で表されるような特定の原子を究極の構成要素として、万物は成り立っている。夜空の星であれ、われわれの身体のような有機体であれ、である。だから未知の星からもち帰った岩石も解析できる。これはとてつもない驚きだった。

また「引力の法則」はわたしにも木星にもはたらいている。「エネルギー保存の法則」というのだってある。これによると、この宇宙のエネルギーの総量は一定であるという。だとすると、何かが生起したら、何かが消滅しているはずである。宇宙で起きることは一定量だからである。つまり石ころ一個だって、砂粒ひとつだって、この法則を免れることはないのだろう。すべてのものは「在るべく」してあるのである。

あやゆる存在の組成と法則は共通しており、繋がっているのである。

われわれは生かされている

誕生があれば、必ず死もある。われわれも木星も同じである。古代ギリシャ風にいえば、この様態は「生成」にほかならず、本来の意味での存在・実在ではない。いわば新陳代謝を経て、ただ生と死を変転しているだけである。イデアの世界こそが真に実在するのである。

誕生は消滅と表裏一体なのであり、誕生は消滅によってもたらされる。だから、何かが無と化したがゆえに、われわれは存在できたのである。何かのエネルギーがはたらいて何かが消え、われわれが生まれたとしたら、何らかによって、われわれは生かされているということでもある。物質世界は宇宙の原理と法則の上で成り立っている。それを「神」という人もいるだろう。「偶然」と呼ぶ人もいるかもしれない。

もういちど念を押しておけば、すべては在るべくしてある。その事実に気づく時、われわれは宇宙の大いなる必然と繋がり、ひとつになっている。「あなたはひとりじゃない」。果てしない夜空の星に身を任せる時、われわれはそうした壮大な思いに打たれることがあるかもしれない。

「ジュピター」はそんな事実への「気づき」を促す音楽なのだろう。

天と地をつなぐ歌 

この広がりすぎた解釈・イメージを妄想だという人もいるだろう。だが作者はこういっている。

天と地をつなぐ歌を書こう。「Jupiter」は中越地震をきっかけに祈りと励ましの歌になりました。長岡で夜空にフェニックスが打ち上がるのを見て、天と地をつなげることができたこと、生かされている命への感謝がいまここにあふれていることを実感することができました。

『Jupiter』が紡いだ15年の物語(前編)──作詞家・吉元由美があの名曲の知られざるエピソードを語る

わたしの妄想も作者が描いた世界と遠く離れていたわけではなかったのだと思いたい。

ちなみに古代中国の音階は宮(ド)・商(レ)・角(ミ)・徽(ソ)・羽(ラ)が一般的だったが、それぞれの音は惑星と結びつけられていた。すなわち宮=水星、商=木星、角=土星、徽=金星、羽=火星である。これらはハーモニーをなしており、音楽は宇宙の秩序と調和の具現と考えられていた。