胸キュンの構図―ビートルズ「恋する二人」

音楽は進行するにつれて情報量が増え、密度が高まる。これは西洋的な時間観に基づくクラシック的な発想といえる。円環的に時間がめぐる非西洋の発想とは一線を画する。ビートルズの音楽をビートルズたらしめ、革命的ともいえる影響の震源地としたのは、このクラシカルな音楽思考ではなかったか。

そう論じたのは「ビートルズがもたらした革命の本質、またはクラシック的なものとは―『ティル・ゼア・ワズ・ユー』と『オー! ダーリン』」という、本ブログ内の、長ったらしいタイトルの論考だった。

ビートルズは最初期からクラシカルな志向をもっていたようだが、「情報量の増加」という説明には補足が必要でもあるように思える。たとえば「恋する二人」である。

典型的な初期ビートルズの世界

「恋する二人 I Should Known Better」は映画『ハード・デイズ・ナイト!』(1964年)のために書かれ、同名のアルバムに収録された。日本ではシングル盤でも発売された(B面は「ぼくが泣く」)。デビュー以来、ビートルズのトレード・マークでもあったジョン・レノンのハーモニカがフューチャーされた楽曲である。

曲の構成はV1V2MV3vV2Mとなる。やや変則的ともいえる形だが、それには理由がある。ともかく、まず歌詞を確認しておこう。ヴァースVは3番まであるが、2番まででこう歌われる。

きみみたいな女の子なら 知ってるべきだった
きみのすべてを愛してしまうだろうということを
そうさ ヘイ ヘイ ヘイ 愛するよ

I should have known
better with a girl like you
That I would love everything that you do
And I do, hey, hey, hey, and I do

ああ 気づきもしなかった キスから何が始まるか
これはぼくにだけ起こったこと
わからないの? わからないの?

Whoa-oh, I never realized what a kiss could be
This could only happen to me
Can’t you see? Can’t you see?

第2ヴァースの入りの、最初はなかった「ああ Whoa-oh」も効果的である。こういうちょっとしたフェイクもビートルズの小さからぬ魅力だった。

そしてサビMが来る。That から入るのだが、これは第2ヴァース最後のライン Can’t you see? を受けている。つまり、何がわからないのか、「わかる see」の内容である。曲としては次の部分に入るのだが、意味で繋いでいるのである。

ぼくがきみに 愛しているというと ああ
きみもぼくを愛しているということを ああ
そして ぼくのものになってくれるね とたずねると
きみもぼくを愛しているということを

That when I tell you that I love you, oh
You’re going to say you love me too, oh
And when I ask you to be mine
You’re gonna say you love me too

第3ヴァースもいちおう確認しておこう。

だから 前から もっといろいろ気づいているべきだった
これが愛なら もっと愛して
そうさ ヘイ ヘイ ヘイ 愛してよ

So I should have realized a lot of things before
If this is love you’ve got to give me more
Give me more, hey, hey, hey, give me more

「恋する二人」の原タイルは「もっと知っておくべきだった」となる。後のインタヴューで(1980年)、ジョンはこの曲を「ただの歌さ」といってのけている。

デビュー当時からビートルズは特に「きみ」と「ぼく」の関係を意識して歌った。「恋する二人」は初期ビートルズの典型的な「きみとぼくの歌 you and me song」である。

量よりも質

「恋する二人」で注目すべきはダブル・トラッキングの録音法である。

ビートルズは最初期からダブル・トラッキングを多用し、グループのひとつのカラーともなっていた。これは二度録りした音源を重ねる方法であり、たとえばひとりの同じ歌をオーヴァー・ダブするのである。「恋する二人」でもジョンのヴォーカルは、いつものように、ダブル・トラッキングで録音されている。

ところが2度目の、そして最後のサビで、ダブル・トラッキングがはずされ、ソロとなる。その効果は絶大である。

ここで想い起こされる。ビートルズの音楽に底流していたのは、音楽の進行とともに「情報が増加する」意識ではなかったか。ところが歌が二人から一人になるなら、情報の低下ではないか。

本当にそう感じるだろうか。確かに一回目と二回目のサビで、ビートルズは「変えた」のである。それは意識的な作業であったことは間違いなく、きわめてビートルズ的といえる。この変化はダブル・トラッキングからソロへと「減少」したかに見える。しかしその効果はどうか。

ソロとなることによって、歌の求心力が増すのである。

まるで瞳の奥をのぞき込むかのようにして「きみもぼくを愛しているはず」という言葉が放たれる。心から心への願いはいっそう切実となる。つまり表現が深化する。重要なのは、量ではなく質なのである。

音楽的情報の増大と密度の高まりは、いろいろ解釈できるだろう。しかし「増大」をただの量的な変化ととらえるべきではない。量は減っても、表現が増す、つまり深化する場合もある。であるがゆえに「情報の増大」といういい方には補足が必要なのである。

ビートルズは(おそらくはプロデューサーのジョージ・マーティンも含め)ソロの効果を知っていた。だから「恋する二人」はVVMVVVMという変則的な形となったのである。

何が変則的かというと、こういう三部形式は最後にVが帰ってきて、閉じる構造である。ところがここではサビMで終わってしまっている。「きみもぼくを愛している you love me too」という言葉が何度も響き、消えていく。明らかにサビの残響である。

サビがこの曲の核心であるがゆえに、それを最後に置いて開かれた構造とした。そこから愛の余韻が漂う。三部形式はかくあるべきという規則ではない。音楽にとって、曲の表現世界にとって、どうあるべきが決め手になっているのである。

「ただの歌」だといえばそれまでだが、そんな歌にもキラリと光るものがある。そこがビートルズの凄さなのである。

胸キュンの構図

「恋する二人」は映画の中で二度歌われている。最後のコンサートの曲目として、そしてもう一度は列車のシーンである。そこではエクストラとして映画に出ていたパティ・ボイドが聴き手となっている。この後、彼女がジョージ・ハリスンと結婚することになるのはいうまでもない。

あのサビでのパティ・ボイドの反応が「恋する二人」のすべてを物語っている。

彼女の胸キュンはまさに時代の反応だった。

いや、こんなの口パクの演奏で、編集のなせる業だろうという意地悪な?指摘もあるかもしれない。しかし、このつぎはぎは誰の指示で、誰が行ったのか。少なくとも、よくわかっていた人の仕事である。