人生は夢? でも、きみは独りじゃない―「ムーン・リヴァー」
ボヘミアンなホリー(オードリー・ヘップバーン)がギターをつまびきながら歌う「ムーン・リヴァー」。映画『ティファニーで朝食を』の名場面として記憶されているだろう。さりげなく歌われているが、味わい深く、内容は、結構、難解である。
作詞はジョニー・マーサ―、作曲は、かのヘンリー・マンシーニである。マーサーによると、「ムーン・リヴァー」とは、彼の故郷ジョージア州サバンナの生家のそばを流れる川の通称であるという。詞の内容は以下のとおり。
ムーン・リバー 広大な流れ きみをいつか立派に渡ってみせる
夢と失意をくれたきみ きみがどこへ行こうと わたしはついて行く
ふたりの漂流者が 世界へ向けて発った そこには見るべき多くの世界がある
わたしたち 虹の同じたもとを追ってる あの曲り角あたりで待ってる
親愛なる友 ムーン・リバー そして わたし
すべての川は水源から発し、それぞれの道を辿り、最終的には海に流れ込む。その途上で岸辺にさまざまな世界が展開し、それらを目のあたりにし、通りすぎていく。これはちょうど人生に似ていないか。色とりどりの人生が最後は死に行き着くのと同じである。川の流れは人生によく喩えられる。川の水も人生の時間も両方とも「流れ」であり、共通して、終着点で流れが解消される大きな世界へと昇華される。
「ムーン・リヴァー」の詩が難解なのは、ひねりが二重に加えられているからである。まず人生を川に喩えるという設定。もうひとつはこの川をさらに擬人的に扱っていることである。だからムーン・リヴァーは「きみ」とか、「親愛なる友 my huckleberry Friend」と呼ばれたりする。そしてムーン・リヴァーが「夢をくれた」とか「失意を与えた」とか「人」のように表現されたりするのである。
これらの表現はひねりを解くとよくわかる。ムーン・リヴァー(=わたしの人生=「きみ」)がくれた夢・失意とは、人生を歩む者が体験する希望や挫折ということになる。二重のひねりを解消することによって、明確な意味が浮かび上がる。人が、人生の途上で、もし夢を見るなら、必ず失意もあるだろう。
なぜか知らないが、川が発生するように、「わたしの人生」が始まった。それを「きみ」と呼ぶなら、わたしときみはずっと一緒だ。わたしはそこであらゆる喜びと悲しみを体験した。それはきみもよく知っているとおり。だからきみはわたしの「親愛なる友」であり、わたしの道連れなのである。われわれはともに時の流れを一方的に漂流するさすらい人 drifters であり、決して生まれた時・場所=水源に遡ることのない故郷喪失者なのである。
わたしたちはこの先、共通の「虹のたもと」でお互いを待っている。いうまでもなく、この「たもと」は死であろうが、だとしたら、人生は虹だったということになる。われわれの人生は虹のように大きな弧を描く。はじめは低く、よくわからない始まりであり、高揚し、また端へ終息していく。そして虹はまた七色の光を放つ。まさに「見るべき多くの世界」がそこにある。しかし虹は光の幻にすぎない。われわれの人生もまた一夜の夢のような幻なのかもしれない。
このように《ムーン・リヴァー》の歌詞を読みこんでいくと、必ずしも明るくはない、それどころか暗い内容を歌っているように見える。しかしそこには何か慰められるもの、懐かしいものがあるのはなぜだろうか。おそらくは、みずからの人生航路そのものを「きみ」と呼ぶ時、どんな人間にとっても絶対の友を見い出すからだろう。人は誰でも自分を知り尽くした友がいる。自分の始まりから終わりまでともに歩み、わたしの消滅とともに消えていく親友。
この世でどんな孤独な魂といえども、わたしのことをずっと見守り、ともにさすらう友だちがいる。こうして、みずからの人生を「きみ」と呼ぶことによって、われわれはかけがえのない伴侶を得るのである。わたしは絶対にひとりじゃない。そしてそのことが「ムーン・リヴァー」にちょうど月の光のようなほのかな明るさをもたらしているのであろう。