悲しみの彼岸へ―シューマン『詩人の恋』6

わたしの中に彼女を否定する自分と肯定する自分がいる。二つの自分の共存とはどのようなものか。第三部の第13曲「夢の中で泣いた」がその内実を明かす。

夢の中で泣いた きみが墓に横たわっている夢を見たから
目が覚めても 涙がまだ頬を流れていた

夢の中で泣いた きみはぼくのもとを去った
目が覚めても ずっといつまでも 苦い涙が流れた

夢の中で泣いた きみはまだ優しくしてくれていた
目が覚めても いつまでもとめどなく 涙が流れた

第4曲「きみの瞳を見つめると」と似た構造が読みとれる。「~すると」といった、ある状況Aと、それに対する反応Bが列挙されるのである。ただし第13曲では、Bは一定である。「目が覚めても涙が流れていた」というのである。それに対してAの部分の夢の内容が変化していく。

1回目は「彼女が死んだ夢を見た」という。実際に彼女は死んではいないが、実質上、詩人にとっては死んだに等しい。夢の中で泣いたというのも当然である。起きても、涙が流れた。2回目「彼女は去った」。事実である。だから夢の中で泣いた。起きても、涙が流れた。ここまではよくわかる。ところが、またしても、ハイネは最後にひねりを加えた。

3回目は「夢の中で彼女はまだ優しかった」というのである。幸福だったあの頃がありありとよみがえる。まさに夢であり、現実という廃墟から時間を遡り、星たちがまたたくお花畑に引き戻されたようだ。ああ、何というしあわせ! その時、泣く涙とは、「嬉し涙」「幸福すぎる涙」以外にはない。ちょうど第4曲で彼女が「愛している」と囁いた時に流した苦い涙と同じである。あの時は苦々しささえ甘美だった。夢の中の涙は喜びの頂点から溢れ出たのだった。

ところが、目が覚めると、まだ涙が流れているという。この涙は、嬉し涙のはずがない。悲しみの涙、それも深い深い悲しみの淵から汲み上げられた涙なのである。この悲しみは過去の幸福の光によって照らし出され、いっそう悲惨に映る。シューマンはそれを異常な不協和音で描いた(譜例 青)。

持続するDesと無関係に、三和音(基本形で示す)が上方へ半音階的にスライドする特異な和声法であり、まるで理性(歌詞)から勝手に遊離して感情(ハーモニー)が動くようだ。歌唱声部と和音はぶつかり、軋み、悲痛な叫びをあげる。「起きてもまだずっと 」涙が頬を流れる。夢からの目覚めは現実への覚醒だった。

ここで確認しておくことがある。夢の中で泣いたのは、幸福すぎる涙だった。で、目覚めて泣いたのは現実の悲惨さを目のあたりにした慟哭ともいえる涙だった。幸福の涙と不幸の涙が、今、ない交ぜとなる。区別がつかなくなる。

涙とは不思議である。両極端のものがひとつとなり、同じになる。シューマンはこれを「泣き笑い」といったりしたが、彼の表現世界の真骨頂ともいえるだろう。言葉にすると、相反するどころか、正反対の感情が入り交じる。これをロマン派はフモール Humor といったりもした。喜びと悲しみで同時に涙を流すというのは、もっとも深い感情からの発露ではあるが、客観的には、ある種、滑稽に見えるかもしれない。崇高と喜劇、真面目と可笑しさは紙一重、いや同時に混在しているかもしれない。ある感情が沸点に達すると、悲しみと喜びの区別はつかなくなる。その地点でシューマンは感情表現の最深部に到達したかのようだ。

言葉にすると矛盾でしかないが、ある感情が魂をとらえていることは確かである。なぜか知らないが、涙が出る。次の『フモレスケ』作品20冒頭「単純に Einfach」もそんな音楽といえるだろう。

第13曲で心の平和が訪れたわけではなかった。ただ現実を受け入れるしかなかったのである。その時、およそありえない感情の共存が生じる。第14曲「毎晩きみの夢を見る」で彼女がくれる糸杉とは、死の象徴か。第15曲「古い童話の中から」では、ロマン派のユートピアが描かれる。しかし最後のラインにはこうある。

ああ あの喜びに満ちた国をよく夢に見る
でも朝日が昇ると 泡のように消えてしまう

終曲である第16曲はオペラのレチタティーヴォのような大きな身振りで始まる。さあ、今までの苦悩も悲しみも、心の痛みも、全部、捨ててやる。どでかい棺をもってこい。そこにすべてを投げ込もう。そいつを巨人に運ばせて、大洋に沈めてやる。「なぜ棺がそんなに大きいか」と最後に「落ち」がくる。ぼくの愛と痛みが、とんでもなく、でかかったから。音楽は「愛 Liebe」のところで、一瞬、ニ長調が閃き、すぐに嬰ハ短調へ向かうかのようだ(譜例 赤)。ニ長調はいわゆるナポリの調である。

しかし嬰ハ短調へ落ち込むのではなく、音楽はエンハーモニックの変ニ長調へ転じる。苦悩とは、潔く、おさらばだ、とはならなかった。第12曲「光り輝く夏の朝に」の花たちの囁き「わたしたちの妹に腹を立てないで」で湧き上がり、あふれ出したあの旋律が滔々と流れ出す。腹を立てたりはしない。誰も悪くない。それどころか、まだ彼女を愛している。でももとには戻らない。絶対に。

われわれはかつてシューマンがピアノ曲から歌曲への大転換を果たしたのを見た。それは抽象的な表現からより具体的で明確な表現を求めた結果だったろう。そして『詩人の恋』の後奏で、再び言葉にならない表現世界へ戻っていくシューマンの後ろ姿を見るのである。

その時、異例なことが起きた。歌の終わりとともに曲集が閉じられるどころか、ピアノが3分間ほどもの間、長々と後奏を続けるのである。ピアノの独白はやるせなくも切なく、至純の響きを湛え、悲しみの彼岸に到達して、消えていくようだ。歌曲集の最後がピアノ独奏とは。

なぜなら『詩人の恋』が辿り着いた地点はもはや「言葉にならない」からである。「悲しみの彼岸」といっても、悲しみを拭い去ったとか、乗り越えたとかではない。むしろ悲しみを存在の一部として受け入れたのである。そこにあるとしたら、フモール的な「悲しみのよろこび」だろう。「よろこびの悲しみ」ではない。なぜならピアノの後奏は長調だからである。そこには大きな肯定がある。

彼女との体験は幸福だった。しかしそう思えば思うほど、彼女の不在は不幸のどん底となる。それでもあの体験はかけがえなかった。「不幸な幸福」である。不幸と幸福は入れ替わるのではない。混在するのである。忘れようとしても忘れられない。心にぽっかり空いた穴にあいまいな修復があるわけでもない。人間の誠実と高潔、そて矜持として「それが人生さ」と、涙を浮かべながら、受け入れるしかないのである。