内省の囁き―シューマン『詩人の恋』5

第12曲「光り輝くの朝に」とともに、連作歌曲集『詩人の恋』は新たな段階に入る。全体の結論ともいうべき第三部へのターニング・ポイントともいえる曲であり、そこでは「和解」が示唆されているようだった。しかし誰と誰の和解なのか。そこで再び詩を吟味する必要がある。

光り輝く夏の朝 ぼくは庭を歩き回る 
花たちが die Blumen ささやき 話しかけてくる だけどぼくは黙って歩く


花たちはささやき 話しかけてきて 憐れんでぼくを見る
「わたしたちの妹 unsrer Schwester に腹を立てないで 悲しみで青ざめた人!」

暑い夏の一日で、唯一、爽やかな瞬間があるとしたら、朝だろう。そこに射し込む光は新しい夜明けのようだ。全体的に象徴的な詩である、4の詳細な分析で見たように、調的な対立は主人公たる詩人と花たちにあったのだが、最終的には、花たちが歩み寄るという構図だった。ちなみに『詩人の恋』の登場人物は「詩人」と「彼女」の二人だけで、彼女の存在は詩人という窓をとおしてしか現れない。つまりすべてが詩人の心象風景だともいえる。だとしたら「花たち」とは誰か?

「わたし自身」でしかありえないだろう。もうひとりの、いや正確にいえば、花たちは複数形だから、わたしの中に何人かいる自分なのである。ちょうどシューマンがみずからの分身を「フロレスタン」と「オイゼビウス」と呼び、また「ラロー先生」も内に棲んでいるといったことが想い起こされる。

で、その複数のわたしとはどういう存在なのか。花たちは庭に咲いていたのだった。「庭を歩き回る」という「庭」とは、あくまでも敷地内にありながら「住居」「建物」とは区別される場所である。家の外ではないが、普通の日常的な生活空間から離れたところ。これを象徴的にとらえると、わたしにも、普通の、いわば中心部分にいる自分と、より周辺的な部分にいる自分があるということになろうか。周辺といっても、あくまでもわたしである。ちょうど庭がまぎれもなく我が家の一部であるように。だとしたら、そこで咲く花、わたしに語りかける花たちとは何か? わたしの分身であることは間違いないが、より非日常的なわたしとでもいうべきか。あるいは常に前面にいるわけではない自分というべきか。

こういうと、深層心理が綾なすシュールな光景を想像するだろうか。むしろ日常だろう。われわれは「あれはAだ」と思いながら、「いやBかもしれない」と自問自答したりしていないか。わたしの中で「-したい」と「-すべき」が競合するのは日常である。つまり自我というものは単一・単体のわたしなどではなく、複数のわたしで構成される複雑な統一体と想像される。そうした複数の「わたし」の対話が「思考」「考えること」にほかなるまい。

恋の破局で衝動的に突っ走っていた詩人にも、忌まわしい事件からの時間という距離感が生まれた。その時、内奥の声が囁いた。「わたしたちの妹に腹を立てないで」。「妹」とは彼女以外にはありえない。

否定するしかない女。破局の原因は彼女にある。すべては彼女が悪い。闇を抱えた女だ、どうせ他の男のところに走るんだろう……。第二部でぶちまけた憤怒とも自暴自棄ともつかない暴走に対して「腹を立てないで」というもうひとりの自分がいた。そいつはさらにこう囁いたかもしれない。「だって、本当はまだ愛してるんだろ」。

詩人と花たちの和解とは、わたしとわたしの和解だった。その時、ピアノのアルペジオから一条の光のような旋律が浮かび上がる。

次のホロヴィッツの演奏は“Sei unsrer Schwester nicht böse,”から。

第三部はこれで終わってもよかったのかもしれない。しかし、ここからさらに心の深淵を渡り、最終的な境地に到達することになる。