世界の原理としての意志の顕現―ワルターの二つの『大地の歌』

案の定、わたしもかつてマーラー『大地の歌』の強烈な洗礼を受けた。モーツァルトの衝撃はあくまでも深かったが、『大地』のインパクトはまるで頭を打たれたかのようだった。

聴いたのは、もちろん、ワルター/フェリア―の名盤(1952年)だった。熱に浮かされたように、一晩に何度も聴いたこともあった。

その後、新しいステレオ盤(1960年)も聴いた。世評と違って?こちらも悪くないと思った。当然、細部の違いはある。だが大きな解釈の違いに気づかないわけにはいかなかった。第4曲「美について」である。

突然の場面転換をどう描くか

フルートのトリルが水辺にそよぐさわやかな風を呼び起こす。乙女たちは嬉々として岸辺の花を摘み、戯れる。彼女たちのたおやかな姿を水面がさかさまに映し出す。

すると、その時、猛々しい駿馬にうちまたがった若者たちが茂みより飛び出してくる。草原を駆ける馬はたてがみを荒々しくなびかせ、熱い息を吐き、草花を蹴散らして、嵐のように去った。

この静から動への一瞬の転換をどう描くか。管に出るファンファーレ的なシグナルが広がり、打楽器が打ち鳴らされ、音楽はたちまち膨れ上がる。ワルター/フェリア―盤はこうだった。

美のただ中への、突然の、暴力的な侵入を絵画的に描く部分といえる。

同じ部分は、8年後のステレオではこうなった。

小さな再生装置ではわからなかもしれないが、ステレオで聴くと、違いは歴然とする。最初聴いた時は、前の録音にはなかった圧倒的な迫力に驚いた。ステレオ版は高音域より、低域への広がりがすさまじい。大太鼓の轟きは地の底から響きわたる。大地が揺れるようだ。本能的な畏怖さえ呼び起こす。

この違いは音質、およびモノとステレオの効果の問題なのか。それにたかが音量とバランスの問題なのか。

大太鼓の地響き

ちなみに、スコアにはこう書かれている。打楽器部分を赤で示した。

トライアングルとシンバルがフォルティッシモで打ち鳴らされ、ハープのグリッサンドで、トゥッティへ流れ込む(練習番号8)。しかしトゥッティといっても、オーケストラ全体が音量を持続させるような普通の書き方はされていない。マーラー的な管楽器のけたたましいトリルが持続しているものの、バスを欠いており、ヴァオリンとヴィオラは裏泊を打つ。音の塊による総奏といったスコアではない。それに ff はたった1小節である。

ティンパニには mit Holzschlägel とあり、木製マレットの小さな楽器が指示されているようだ。明らかに荒々しい馬のひづめが駆る音の模倣だろう。ということは、ここでのフォルティッシモを生み出すのは、大太鼓に大きく依存していることになる。

求められているのは、音の氾濫ではなく。重低音による波動だろう。

こうした特殊ともいえるスコアリングゆえに、ワルターの爆発的ともいえるフォルティッシモを演出するには、特に意図的、かつ明確な指示が必要だったはずである。

モノからステレオ録音の間に、ワルターの中で何らかの解釈の変化が起きたのだろうか。

意志の表象としての世界

音「量」の変化は「質」の変貌を促す可能性も否定できない。ひづめの音の描写が象徴的な意味を帯びるのである。

乙女たちの清らかな世界に、突然、暴力的なものが闖入し、蹴散らしていく。やがて金色の太陽がもとの静謐な世界を描き出す。しかし荒馬を駆ってもはや見えなくなった若者の後ろ姿に、乙女は熱い眼差しをおくる。

乙女たちの中でも とりわけ美しいひとりが面をあげ
いつまでも追う目は 少年への憧憬の眼差し
乙女の気位の高い物腰は 上辺の見せかけにすぎない
つぶらな瞳のうちに 閃く火の中
熱い眼差しに揺れる ほの暗い影の中には
嘆きとなっていつまでも消えない 心のどよめきがある

だが乙女の胸に去来したのはただの憧憬だったのか。異性への恋の芽生えだったのか。そもそも彼女たちの平穏な日常をかき混ぜ、ひっくり返したのは、若者と馬だったのか。ワルターの解釈からわたしはもっと巨大なものを感じた。傍若無人の暴虐とは「生命」そのものだった。

それをショーペンハウアー的に表現すると「世界を動かす意志だ」ということになるだろう。

「この世は意志と表象としての世界である。しかしてその意志は盲目的である」。この意志は個人にも種族にも妥当する。例えば「性」の原理である。人は思春期になると、ある巨大な何ものかが生を衝き動かしていることに気づく。ショーペンハウアーがいうように、それは盲目的であり、生の愚かさから崇高さまでのすべての源泉となるだろう。

しかし、盲目的であるとしても、意志の目的は明確である。種の保存である。それなしには生そのものが成り立たない。乙女の眼差しは生の輝きに直結しているのである。

確かにこの世はすべてが相対的で、「意志」が悪さしているとしか思えないかもしれない。しかし生の光は影によって、はかりしれない尊さは悲惨によってのみ体感できるはずである。そこからのみ生への愛おしさがあふれ出す。だから『大地の歌』では人生の否定と自暴自棄が生への憧れと並置される。そして、だからこそ、その思いは痛切なのである。つまり生に対するわれわれのあらゆる思い、感情の源がそこにある。

世界の原理の顕現という第4曲の解釈は『大地の歌』にしっくり収まる。また全曲の鍵を握る曲としても位置づけられるだろう。

茂みから飛び出してきたのは、若者が駆る馬だったかもしれない。しかし世界の原理でもあったかもしれない。ワルターの解釈を聴いてそう感じた。そして乙女の眼差しに宿る憧れは、すべての生きとし生けるものの存在の根源から湧き出ているのである。

われわれは気づくと気づかないとにかかわらず、そういう宿命的な世界、ショーペンハウアー的にいうと、巨大な意志の戯れの中を生きている。そう思うと、あの乙女の憧れの眼差しに涙しないではいられらない*。

*ちなみに、ワルターにはフェリア―盤以前の録音もある。1936年盤である。比較されるのも一興だろう。