バッハの凄さ、しみじみー『ミサ曲ロ短調』の演奏をめぐって1

1960年代末から「オリジナル楽器」(当時はそう呼んだ)による古楽の再構築の運動が広がったのは周知のとおり。いうまでもなく、バッハはその中心にあった。歴史的楽器による解釈のみならず、時代考証を経たアプローチが、「バッハの時代の響きをよみがえらせる」という触れ込みで、新時代の訪れを告げているようだった。コマーシャリズムが後押ししたのはいうまでもない。確かにその影響は甚大だった。

たとえばバッハ畢生の大作『ミサ曲ロ短調』冒頭のキリエを聴いただけでも、時代の息吹が実感できるだろう。かつてはバッハ特有の息の長いフレーズを淡々と歌っていた感じだが、今ではさまざまなニュアンスを込めるのが普通だろう。確かに影響は大きいだけでなく、豊かだったが、考えさせもする。たとえば、次のような例。

これはガーディナーの2010年のライヴのようだ。2015年の新盤でも基本的には同じ傾向にある。ちなみに1985年の初録音(CD)では、各パート一人の重唱で始まっていたはず。古楽運動の旗手アーノンクールの二度目の録音(1986年)はこうなる。

もちろん新しい演奏・解釈をすべて一緒くたにできないが、ひとつの傾向を表してはいるだろう。ちなみにバッハの楽譜には何の指示もない。楽譜で歌のニュアンスを正確に表すことは不可能だが、こんな感じで歌われているようだ。

「キリエ Kyrie」でまず句読点のように切られ、「エ e」と「レ le」ははっきりと、特に「レ le」はスタッカートのよう。そして次のGーFisの旋律の動きはスラーがかかったように歌われる。こういった解釈の根拠となっているのは、いうまでもなく、まず歌詞だろう。「主よ Kyrie」「憐れみたまえ eleison」という2つの言葉を意味的に切る。そしてスラー的な処理の根拠となったのは、歌の出る前の楽器による主題提示にあったのだろう(譜例下)。バッハはそこで珍しく細かいスラーを書き込んでいるからである。スラーの前の音がスタッカートのように聞こえるのは、次のスラーの入りをはっきりさせるためだったかもしれない。スラー感を出すために、2音の後の音Fisがわずかに短めになるようでもある。 

確かに、歴史的に見ても、バロックの革命は言葉に生命を付与することにあった。「音楽は言葉の侍女でなければならない」(モンテヴェルディ)。基本的には正しいアプローチなのだろうが、旋律がやや寸断されたような印象を否めないのも事実である。

少なくとも、音楽的にいえば、主音Hから出発した音は、Cis、D、Disと上昇し、Eに到達するというのが、旋律の基本線であることは確認しておいていい。骨格となるH、Cis、D、Eはきちんと小節の1拍目と3拍目に置かれ、拍節にも合っている。

バッハの主題は主音からしっかりと足を踏みしめてEに辿り着き、そこからはらりと下降する。半音下がったナポリのCナチュラルからの流れをAisで受け止め、典型的にバロック的な減7度の跳躍から旋律は大きな弧を描く。細部のニュアンスはともかく、バッハの長大なフレーズが息切れするように聞こえるのはどうなのか。

ちなみにこの第1キリエをソロで始める指揮者もいるが、ソロと合唱では歌のニュアンスも当然異なる。合唱なら、あまりに豊かな表情づけは望まれてないともいえるだろう。合唱の人数にもよるが、ニュアンスをつけすぎないのも、ある種の「荘厳さ」の表現ともなりうる。ちなみにフーガの入りに「ソロ」とは記されてはおらず、指示されていないのも指示だとは思うが。

さらに気になるところがある。2声目が入る時、ちょっとしたクラッシュが起きる。

最初の声部のFisとGisが長2度でぶつかるのである(テノールの実音はオクターヴ下)。ここで胸が疼くような一瞬が訪れる。その瞬間は主題が入ってくるたびに繰り返される。キリエがどういう音楽であるべきかという議論もあるだろう。ただバッハは外面的な祝典の音楽にしたくなかったようだ。ミサ冒頭のキリエは魂の領域に聴き手を導き入れるような音楽でなければならなかった。

ところが、小節の頭のGisをスタッカートのように歌うと、当然、2度の軋みはゆるくなる。時間的にも短くなり、粘着性も薄められてしまうのである。結果として、胸の疼きならぬ、ちょっとした「かゆみ」がかすめて行くといったとこころか。

細部のこだわりだというだろうか。そうではないはずだ。キリエの主題はテノールからアルト、ソプラノ1、ソプラノ2と続き、最後にバスで入ってくる。そのたびに、あの小さな疼きが去来することになる。主題は続いて第2ソプラノに現れ、ついに第1ソプラノが最高音で歌う。拝みたくなるようなスコアだが、声楽部分のみを引用する。

この長大な第1キリエの最初の部分を締めくくるクライマックスである。バッハは第1ソプラノに最高音Aを使うために、主題を嬰ハ短調とした。普通、近親調しか使わなかったバッハにとって、この調性の選択は異例であり、並々ならぬ意志を感じさえずにはおかない。あの長2度の軋みは相変わらずだが、最高音Aからの下降線が小節の頭に達した時、ついに音は短2度でぶつかるのである。これが欲しかったんだろう。長2度でこらえていたものが、短2度であふれ出すかのようだ。

クライマックスは物理的であると同時に表現的でもあった。

その周到な伏線が長2度の軋みだったのである。恐るべきバッハ、バロックでよく使う、いわゆる繋留音へ重ねる不協和な2度を、第1キリエを構成する因子として配置・構築した。だからこそ主題の入りで念入りにあの音のぶつかりを響かせる配慮が必要だと思われるのである。ここでいう配慮とは、当然、奏法やテンポ設定も絡んでくる。しかし一番大切なのは意識なのだろう。