受難の「物語」よりイエスへの「感情」を描く―バッハ『マタイ受難曲』

バロック期の基本的なスタイルである通奏低音は感情表現のために創出された。通奏低音は低音の声部に和音を付けて演奏する様式だが、ポリフォニックな声部のしがらみから主要な旋律を解き放つことになる。今や旋律は歌詞がもつ感情を自由に歌い上げることができたのである。

バッハも通奏低音を音楽の根幹とみなしていた。彼の音楽は伝統的な対位法技法をきわめた論理的側面が強調されがちである。しかし同時代の「情念の表出」ともいえる側面も確かに堅持している。『マタイ受難曲』はその象徴ともいえる作品だろう。

特にこの曲には単なる「好き」を超えた熱烈な「信者」が少なくないことは、音楽がかつてない深い感情世界へと踏み込んでいることと無関係ではあるまい。あるいは曲がメンデルスゾーンによって再発見されたことも、偶然ではあるまい。ロマン派の時代は音楽に何よりも感情表現を求めた時代だったからである。『マタイ受難曲』はその究極の回答であり、「受難のドラマ」というより、「イエスをめぐる感情の絵巻物」であるように思われる。ドラマは感情をあぶり出すための素材にすぎないかのようだ。バッハはそれを理解・意図しており、『マタイ受難曲』ではそのための周到な仕掛けをしたように見える。

 受難曲で特に注目すべきはアリアである。アリアの機能は、レチタティーヴォで説明・解説された状況の中で、感情を歌い上げることにある。誰の感情が? ドラマで特定の状況下に置かれた「登場人物の感情」というより、物語を観ている信徒の、あるいはより一般的な「観衆の感情」である。誰かの客観的な気持ちではなく、主観的でしかありえない「わたし」の心情なのである。

『マタイ受難曲』は二部から成り、イエスの捕縛前・後に分けられる。アリアは全部で14曲あり、物語中の人物が歌う曲が3つある。第二部冒頭のアリア第35番がイエス、第39番がペテロ、第57番がシモンである。特にペテロの有名なアリア第39番は『マタイ』全曲の中で聴き手をもっとも強く涙へいざなう音楽といえよう。「憐れみたまえ、わが神よ」という悲痛な慟哭は、一人の使徒を超えて、人間の根源的な弱さを共有するあらゆる人間の心の叫びとなる。

十字架を背負うシモンのアリア第57番についても、「ついていきたい」という聴衆である「わたし」の切なる思いが重ならざるをえない。『マタイによる福音書』でシモンはわずかにしか触れられていない(第27章32節)。しかし彼にシモンにアリアを与えることによって、聴き手の心を掻きむしるような効果をもたらしている。残りのアリアはすべてイエスの受難に立ち会う人々が主語である。

そしてここでバッハは特殊な語法を用いた。上のペテロのアリアをごらんいただきたい。低音で赤で示した下行するラインがある。バロックで特に死にまつわる「悲しみ」「哀悼」の表現のために用いられた「ラメント・バス」である。バッハは『マタイ』第二部の9曲のアリア中6曲にまでラメント・バスを投入した。

ラメント・バスは短調で半音階的に下行する低音が典型的だが、ここではさまざま形で用いられている。ペテロのアリアは全音階的であり、最後の第65番「わが心よ、おのれを浄めよ」は、歌詞の表現上か、長調で全音階的になっている。単調さを避けるためでもあったかもしれないが、第二部の気分の統一に役立っているのは間違いないだろう。その気分とは、愛するイエスの受難をめぐる、内奥から汲み上げられる感情である。

それにしても9曲中6という数字は偶然どころか、意図的なものを感じざるをえない。明らかにバッハは第二部でラメント・バスによる変奏曲といった構想を描いていたのではないか。こうして、無伴奏ヴァイオリンのシャコンヌのような、深い感情世界を引きずり回す効果がもたらされたのだろう。バロック的な情念表出の究極の作品がここにある。まさにイエスへの愛と涙の一大貯水池とでもいえよう。