3度転調の「奇跡」―バッハの『ロ短調ミサ曲』の場合

3度転調した時、そこで何かが起きると期待していい。すでにモーツァルトの例を見たが(「その時、魅惑的な時が訪れる―モーツァルトにおける古典的な3度転調」)、さらにバッハの場合を確認しておこう。

バッハの時代、ひとつの楽曲内での転調範囲は、♯か♭がプラス・マイナス1(属調か下属調)、平行調(ハ長調とイ短調のように、調号が同じ長調と短調)、それに同主調(ハ長調とハ短調のように主音が同じ長調と短調)にだいたい限られる。つまり近親調なのだが、次の例は驚くべき逸脱を示している。ミサ曲ロ短調よりソプラノとアルトの二重唱「しかして、われ唯一の主を信ず Et in unum Dominum」である。

曲はト長調である。軽いタッチではあるが、ト長調(♯×1)からト短調(♭×2)に触れ、突然、驚くべき変ホ長調が閃く(♭×3)。ト短調→変ホ長調の3度下、主調のト長調からは♯1→♭3の、この時代としてはかなり大胆な筆致といわざるをえない。バッハの強い意志を感じさせずにはおかない。そして効果は絶妙である。曲はハ短調(♭3)、ハ長調(調号なし)を経て、論理的にト長調に復帰する。

一瞬であるということは、そこで起きたことの印象を弱めるものではあるまい。

ト短調の影がよぎり、次の瞬間、変ホ長調がまばゆくも柔らかい光を放つ。歌詞に注目である。譜例の前の部分から「しかして、聖霊によりて、乙女マリアから肉を受け、人となりたまえり Et incarnatus est de Spiritu sancto, ex Maria virgine et homo factus est」の部分に入っていた。要するにイエスの降臨の場面なのである。ミサ通常文の中でマリアさまが登場するのはここしかない。バッハは、聖霊によって、乙女マリアから「人となり」のところで3度転調を投入した。まさにそれは奇跡の音楽的表現だったに違いない。

羊飼いたちが野宿する夜に、馬小屋で奇跡が起きる。「世の光」となるべきイエス・キリストの降誕である。おびただしい画家たちが描いたテーマだった。

ホントホルスト『羊飼いの礼拝』(1622年)

バッハが描いたのはその音楽版だっただろう。主調のト長調に対してト短調を経由し、当時としては異例の、変ホ長調が閃く。普通ではない調の選択は奇跡の表現を呼び起こす。

ちなみに譜例にあげたのはバッハの第一稿だった。「われ唯一の主を信ず」の最後16小節に「しかして受肉し(エト・インカルナトゥス・エスト)」の歌詞が入るのである。80小節の楽曲だから、「受肉」の部分は全体の5分の1というささやかな扱いである。しかし「エト・インカルナトゥス・エスト」こそは、カトリックの作曲者たちが、ミサ曲で最重要とみなし、腕によりをかけて臨んだのだった。バッハがそういう伝統を知らないはずがない。後に、十全な対応の必要性を感じたのだろう、「受肉」の16小節を別に、独立した楽曲として、新たに作曲した。「唯一の主」は二重唱だったが、続いて5声の合唱による驚くべき神秘と畏怖に満ちた「エト・インカルナトゥス・エスト」が来る。これが決定稿となる。

その結果、決定稿では、前の「唯一の主」後半の「受肉」の歌詞は削除された。明らかに、歌詞の重複を避けたのだろう。代わりに「われら人類のため、またわれらの救いのため、 天より降りし者を信ず」に置き換えられた。ここにイエスの降誕を表す驚くべき3度転調を用いた必然性は希薄化した。今日、普通に演奏されるのこちらの版である。

ところが1956年に新バッハ全集が刊行された時、第一稿が復活した。「受肉」の歌詞を「唯一の主」からとり除いた決定稿は補遺として付録に加えられた。校訂したスメントについてはさまざまな批判がある。しかし、音楽と歌詞が見事に調和した第一稿に捨てがたいのものがあるのも事実である。歌詞の重複を防ぐという整合化のために、闇に葬ってしまうにはあまりにも惜しい。バッハ自身も第一稿の音楽的価値を認めていたはずである。

何よりも、キリスト降誕の奇跡を描き出すために、3度転調の奇跡のような効果が用いられた例なのである。

ちなみに上に紹介したオイゲン・ヨッフムの演奏は1981年の録音(新盤)であるが、1958年のライヴ(旧盤)でも第一稿を使っている。1958年といえば、新バッハ全集版刊行の2年後であり、明らかにそれに依拠したのだろう。しかし80年代でも同じ版を使っているということは、ヨッフムなりの考えがあってのことに違いない。「歌詞の重複は問題にならない。『唯一の主』で暗示された奇跡が、次の『エト・インカルナトゥス・エスト』で壮大に展開される、という発想だっていいんじゃないか」と考えたかもしれない。いずれにしても、頑として決定稿を使う演奏もあれば、指揮者によっては、時期によって使う版が変わるものもある。

ヨッフムは曲の最後「エト・インカルナトゥス」のところでテンポを落とし、キリスト降誕の場面を入念に描こうとする。やりすぎだという意見もあるだろう。しかし奇跡を奇跡のように表現しようという解釈を誰が否定できようか。