ブラームスはお好き? 妙なる旋律への招待―交響曲第3番第3楽章
最初ちょっととっつきにくいけど、知れば知るほど引き込まれる。それがブラームスの音楽じゃないかな。その理由はどこにあるのか。交響曲第1番をクララ・シューマンの前でピアノ試演した時、彼女は大感激したというわけでもなかったようだ。あとで周りにもらしたところによると「旋律がない」という感想だったとか。まさにそういう印象がブラームスを近寄りがたいものにしているのかもしれない。ところがそれはあくまでも印象にすぎない。実はブラームスの音楽は旋律の宝庫でもある。だから、その扉を開くや、魅力のとりこになるのである。
メロディストとしてのブラームス面目躍如という曲は少なくないが、典型的なのは、交響曲第3番の第3楽章ポコ・アレグレットだろう。
ブラームスは、交響曲第1番と第2番に続いて、第3番でも、中庸なテンポの歌謡的な音楽を第3楽章に置いた。交響曲の第3楽章は、伝統的には、18世紀に流行った舞曲メヌエットが定型だったが、ベートーヴェンには時代遅れに感じたのだろう。時代性を排した、より抽象的で、活発な「スケルツォ」を第3楽章としたのである。しかしブラームスはベートーヴェンの規範を受け継がなかった。彼が参考にしたのはメンデルスゾーンの交響曲第4番『イタリア』の第3楽章コン・モト・モデラートだったかもしれない。ある意味、交響曲の第3楽章はもっとも自由度が高い楽章といえよう。それだけに作曲者の個性が出やすい。
交響曲第3番第3楽章は次のように始まる。何とも切なくも憂愁漂うブラームス特有のメロディである。
旋律を担当する楽器に注目である。オーケストラの楽器の中で、ブラームスはまずチェロを選んだ。これは開始にふさわしい実に魅力的な選択であると同時に、発展性を感じさせもする。チェロは滋味あふれる音色で訴える力も秘めるが、内省的で、特に派手というわけでもない。実は、ブラームスは、彼としても特筆すべきこの名旋律を、楽器を変えるだけで、そのまま反復することにしたのである。その最初がチェロだった。
だから、ある意味で、この曲は旋律への依存度が高い音楽ともいえよう。ブラームスとしては珍しくストレートな音楽づくりであり、そのゆえに彼の本領が素直に発揮されやすい。
チェロが歌う12小節をa1としよう。旋律のリレーは第1ヴァイオリンに回される。同族の楽器だから、音楽はスムーズに繋がる。これをa2 とすると、最初の部分は、ほのかな陽ざしが射し込むようなブリッジbをはさんで、a1a2ba3となる。a3を担当するのはフルートとオーボエ、そしてホルンである。ブラームスはオーボエとホルンの組み合わせを好んだが、オーボエの芯のある音がホルンの柔らかい光の輪に包まれるようだ。今回はさらにフルートが加えられ、光度が増す。
以上の部分は、旋律的要素の少ない中間部の後、そのまま再現される。つまりa4a5ba6となるわけで、あの名旋律は、楽器を替えるだけで、6回も繰り返されることになる。ここまでくると、これは『ボレロ』と基本的に同じ発想なのだということに気づく。ただしラヴェルのように音楽の究極を追求するのではない。音楽の普通のありようの中で、ブラームスなりの旋律を愛でる方法のひとつだったのだろう。
中間部で旋律が消えてしばらくして、最初の部分が還ってくる。つまりa4となるが、待ちわびた再現だけに、最大の聴きどころになるはず。ここでブラームスは驚くべき楽器にソロを託した。ホルンである。
ホルンはもはや狩で獲物を追い出すための角笛ではない。通奏低音なき後のオーケストラで音を充填するための装置でもない。時々、限られた音の旋律をオーケストラから浮かび上がらせる楽器でさえない。もっとも繊細な心情を切々と吐露する歌い手なのである。ロマン派はホルンを旋律楽器として発見したが、ブラームスはホルンを愛した。彼の愛はスコアの至るところに見られるが、ここなどその最たる頁であるに違いない。
ホルン・ソロに続いて、オーボエ・ソロが立つ。もっともコントラストの強い楽器の選択だろう。包容力のあるホルンに対して、オーボエのか細い音が寂寞感を醸し出す。さあ最後のa6である。どうするか? しかしオーケストラには最後の切り札的な書法がある。もちろんブラームスはそれを投入した。
弦楽器をオクターヴで重ねるのである。ブラームスは第1ヴァイオリンをオクターヴに分奏させ、さらにオクターヴ下にチェロを加え、2オクターヴのユニゾンとした。比べるもののない深い音色がわななき、むせかえるようだ。
完璧である。模範的であると同時に、きわめて個性的であり、合理的・構築的でありながら、表現に溢れている。それがブラームスなのである。
交響曲第3番台3楽章の妙なる旋律のリレーを味わい、楽しむことができたなら、あなたはもうすでにブラームスの世界の入り口に立っているのでは。