理想を歌う、現実を語る―「スターダスト」とブルース
現代のポピュラー音楽を語るにあたって、20世紀アメリカで起こった現象を見過ごすことはできない。
アメリカ的な音楽ジャンルといえば、何といってもミュージカルだろう。ミュージカルの起源はヨーロッパのオペレッタにあり、白人系の移民が西洋音楽を受け継ぎ、アメリカ風に培養した成果だった。その中で歌われたナンバーがヒットして、いわゆる流行歌が生まれた。こうしたヒット曲を伝える媒体はまず楽譜だった。この種の音楽を呼ぶ「テイン・パン・アリー」という言葉は、もとはニューヨークはマンハッタンの一角を表す地名で、1800年代後半に楽譜出版社が立ち並ぶブロードウェイのにぎわいを指すという。音楽を伝播する手段はレコード、ラジオ、テレビと多様化し、音楽そのものと音楽の文化にまで影響を与えていくことになる。
ミュージカル・ナンバーはプロの作曲家・作詞家によって作られた楽曲で、その中でもやがて時代を超えたエヴァー・グリーンとなる作品が生まれた。これがスタンダードであり、アメリカの精神的支柱ともなった。
スタンダードの世界を垣間見るために1曲例を引こう。「スター・ダスト」である。1927年にホーギー・カーマイケルが作曲し、2年後にミッチェル・パリッシュが歌詞をつけて、20世紀にもっとも録音されたアメリカン・スタンダードとなった。曲は珍しくミュージカル・ナンバーではないが、それだけに、筋から離れて、純粋にスタンダードの世界を象徴しているともいえるかもしれない。
美しい。ストリングのかそけきざわめきが心のさざ波を伝えるかのようだ。それもそのはずで、「スターダスト」は恋人が去った後の夜のしじまで歌われる心の綾なのである。しかしそこに負の感情はない。あるのは夜空の星屑に慰めを見い出すこと。そこには調和の階調があり、「バラの花咲くパラダイス」は今はむなしいが、星空のメロディの中に今も色あせることはない。
涙も自暴自棄もない。憎しみや狂気など、とんでもない。ストーカーもいない。あるのは星が奏でる音楽のハーモニー。古代ギリシャ人がいう宇宙の秩序である「天体の音楽」まで感じさせる。そこで歌われているのは、完全で、理想の世界のようだ。
ポピュラー音楽の起源のひとつは、まぎれもなく西洋音楽、要するにクラシックにあった。そしてもうひとつの起源はアフリカからやってきた。
1600年代から、アメリカにアフリカから強制的に黒人奴隷が移送された。彼らは1865年に解放されたことになっているが、現実はそう単純ではなかった。差別の問題は現在まで Black Lives Matter の運動にまで浸透しているのは周知のとおり。しかし、文化のレヴェルでは、アメリカ的なものの本質にアフリカ的なものが確実にとり込まれたのである。特に音楽である。
黒人音楽の声楽は、宗教音楽(教会内の音楽)の「ゴスペル」と、世俗音楽(教会外の音楽)の「ブルース」に大きく分けることができた。ブルースは一人称で歌われ、現実の生活を歌い上げ、白人音楽とは対極的な世界をもつ。西洋音楽の影響を受けながらも、独自のハーモニーの感覚も顕著で、一定の形式を持ち(ブルース形式)、広範な影響力の源となった。一例としてデルタ・ブルース「ルイーズ・マギー」を聴いてみようか。3コードに魂を売ったというサン・ハウスは、いつしか失踪したものの、1960年代に再びひょっこり姿を現し、これぞブルースの原点ともいうべき録音・遺産を残した。
「ルイーズ・マギー」の歌詞は、録音では、8番まであるが、もっと続けることもできたろうし、途中でやめてもよかったかもしれない。そもそも西洋音楽でいう完成した「作品」の概念がない。思いつくままに、生の流れの底に沈殿した澱を言葉として吐き出すのである。歌うというより、語るのである。
かつて「おれはルイーズに惚れていた」「おれは最初からあいつ犬だった」。しかし何があったのか、誰にでもわかる説明ではなく、本人同士にしかわからないようないいまわしが続く。そして「あいつに会ったのが運の尽き」だという。そして7番の歌詞が秀逸である。「朝起きたら、心に3つのそれぞれ違うブルースがあった。出て行きたい気持ちは2つ、とどまろうは1つだけ」。3つがそれぞれ違うのだから、2つの出て行きたい気持ちも、同じじゃないんだろう。
この曲も「スターダスト」と同じく、別れの歌である。しかし違いは歴然としている。サウンドもさることながら、歌詞の世界がかけ離れている。「スターダスト」の完璧な世界には「完全」と「完全ではない」=「不完全」の二項があるだけだろう。中間はない。愛は「完全」か「不完全」かなのである。そして音楽がとりあげるのにふさわしいのは前者である。だから「スター・ダスト」の主人公はあくまでも「完全」にとどまる。つまり対象を失った、抽象的な愛ではあるが、まさにそれゆえに完全なのである。ちょうど星たちの音楽のように、である。スタンダードは理想を歌う。
しかし「ルイーズ・マギー」が歌うのは、まさにその中間、あるいは愛が白・黒ではないこと、むしろその間のさまざまなグラデーションなのである。「2つは出て行く、1つは残る」。もう嫌だという気持ちと、愛しい気持ちが混在している。結果として、出て行くとしても、1つの心は彼女のもとに残したまま。そこに恨み節や、嘆きを織り交ぜ、毒づいたり、呪ったりしながら、現実にしがみつく。それがブルースなのだろう。何よりも正直さ、きれい事じゃない真実さが身上である。
理想や夢の世界を歌うスタンダードは、ややもすると浮世離れの感を免れない。それに対して、ブルースはありのままの現実を直視することで、ドロドロの迷路に迷い込むようだ。しかし表現することにはそれ自体にもすでにある種の解毒作用があるに違いない。そして、一見、両極端に見える世界だが、二つは繋がっているべきなのだろう。なぜなら夢を見ることなしには、現実を受け入れられないから。そしてポピュラー音楽の発展もそこにひとつの道を見い出すだろう。
20世紀アメリカの地で、西洋とアフリカが出会ったことで、新たな発展が生まれる土壌が形成されたのである。