シベリウス最期のメッセージ―交響曲第7番ハ長調

ブルックナーの交響曲第9番の終楽章では、この作曲家としては珍しい、唐突な場面転換がある。曲中に唯一の楽想が、突然、出現するのである。そこから彼の「人生への訣別」が読みとれるのではないかと書いた(「人生への訣別はいかに―ブルックナー 交響曲第9番」)。似たような例をシベリウスの交響曲第7でも感じるのだが。ブルックナーから影響を受けたのではないかと思うくらいである。

両者が似ていると思われるのは、どちらも作曲家の最後の交響曲であるということ、および似た展開が見られるのは、それぞれの終楽章だということである。ブルックナーは第2主題の再現の前、シベリウスはコーダで、である。前者ではその後現れる第2主題が「十字架の音型」であることから、解釈にある方向性が生まれる。ではシベリウスの場合はどうか。まさに最後の最後の頁で何が起きたのか。

交響曲第7番は単一楽章の楽曲であるが、いくつかの部分から成る。そもそもシベリウスの場合は、ブルックナーのように動機を反復し、積み重ねて音楽を繋ぐという、手堅いが、やや見え見えの方法論はとらない。それだけに、動機の関連性などが隠されていたとしても、場面転換に唐突感が否めない感がある。ヴァイオリン協奏曲が名曲といわれるゆえんは、音楽の繋がりと変化の必然性に説得力をもつからではないか。交響曲では第1番か。しかし第7番での転換は変化というより以上に劇的である。

7番のもっとも印象的なところといえば、「アイノの主題」*の全貌が二度目に登場、あるいは再現するところだろう。それまでの生き生きとした音楽の流れから、急にp3つに息を潜め、バスがGに落ちつき、プレストに速度を転じる(第449小節)。明らかにクレッシェンドの入りであり、古典的な「再現への移行部」を想わせる。音楽は明確な再現への志向に突き動かされているようだ。音楽は徐々に、膨れ上がり、テンポは雄大に緩められ、ついにバスがCに解決し、アダージョで「アイノの主題」が姿を現す(第476小節)。奏するは1回目の提示と同じ「神の楽器」トロンボーンのソロ。感動的である。

*スケッチに「アイノAino」(作曲者の妻の名)と記されていることから、こう呼ばれる。

クレッシェンドのところ(プレスト)から

これで曲を閉じてもよかったのかもしれない。しかし音楽は急展開する。「アイノの主題」が出現した後、バスは再びFに落ち、そこから上昇的な動きを見せる。繋ぎ的な進行である。こうして音楽がコード・ネイムBに到達すると(下譜例参照)、Eに解決したと見せかけるようにして、音楽は思いがけないC7に到達する。フォルテ3つはこの曲で初めて。明らかにクライマックスである。


クライマックスの頂点で、突然、テクスチュアが断絶し、甘美で痛切な弦の合奏が浮かび上がる。それが音楽的文脈を断ち切っているがゆえに、あるいは一回性で孤立しているがゆえに、かえって作曲者が「どうしてもにいいたかったこと」を想わずにはおかない。

C7のコードから投げ出された音楽は不確定な調性を彷徨う。同じことは4小節後にも繰り返されるが、今度は変ホ長調がほのめかされるようでもある。しかし確定はされない。音楽は「愛情をこめて affetuoso」を経て、「アイノの主題」の断片が出る。上の譜例赤の部分以下を拡大して次に示す。

譜例の下は初めて全貌を現した時の「アイノの主題」である。特徴的なのは、ハ長調で、レ-ドから始まることである(旋律の最後がシ-ドなのも記憶しておいてよい)。ホルン1と3はこの2音レ-ド(実音)を模倣する。ファゴットとホルン2はレ-ド-ソの3音を縮小形で模倣する(ホルン実音)。これまでトロンボーンで出ていた「アイノの主題」がホルンを中心とした柔らかい響きで、二重に、回想されるようだ。

「回想」に至る第1ヴァイオリンの旋律線は、和声的には不確定だが、動きの「意志」は明確である。

譜例赤丸のCから、音階的に上昇するのである。それは全曲の冒頭の音階を想わせもする(譜例下 チェロのパート)**。途中から半音階的となり、D-E♭-F-F♯―Gと来て、A♭にオーヴァー・ランし、最終的にGに辿り着く。そしてFに落ちつく。

**C-D-E♭-Fは変ホ長調で移動ド読みすると「ラ-シ-ド-レ」となる。つまり冒頭の「ラ-シ-ド-レ」を変ホ長調に移した音程関係にあるともいえる。

音階的に昇り、行き着いたG-Fは、ヘ長調だが、移動ドだと「レ-ド」と読める。「アイノの主題」の冒頭もレード(ハ長調)だった。弦の合奏による展開が行き着いたのはヘ長調版の主題の冒頭2音だった。

突然の逸脱はC7のブレイクから始まった。そして和声的な14小節の彷徨いを経て、Fに辿り着く。C7はヘ長調のドミナントであり、トニックFへの十全な解決が果たされるのである。つまりこの部分を大きな和声的構図としてとらえると、まずC7とFの柱が据えられ、その間をハーモニーが浮遊するかに見える。協奏曲のカデンツァのようだ、といえばいいか。

最終的に交響曲第7番は次の4小節で終わる。

Cのコードの中で旋律がレ-ド、シードと動くだけなのだが、レードはいうまでもなく「アイノの主題」の冒頭(赤)である。では最後の「シ-ド」(青)は? 譜例をもう一度見るとよくわかる。「アイノの主題」を締めくくる進行が「シ-ド」なのである(譜例青)。つまり交響曲の最後の4小節は主題の間をそぎ落とし、最初2音と最後2音だけに切り詰めたことになる。

以上がシベリウス最後の交響曲の最終頁への音楽的分析であり、音楽的記述である。そこで訪れた突然の展望に、ブルックナーの交響曲第9番の場合は、二元性で対極的な世界を描き、対峙させた。そして終局へと歩を進めるのだった。シベリウスの7番では似た文脈であるとしても、情景は異なるようだ。それはある種の帰還を示すようでもある。しかしその純粋な音楽的記述から、そして何よりも音楽そのものからどんなストーリーを紡ぎ出すかは、聴き手の想像力に委ねられているのだろう。