覚醒と分裂―60年代のボブ・ディラン1

ミネソタ州生まれのボブ・ディランが、地元の大学を中退し、ニューヨークに出てきたのは1961年の冬だった。19歳の若者に明確な目的があったかどうか。ただ音楽がやりたかったのだろう。高校時代にはリズム・アンド・ブルースに興じていたというが、生ギターとハーモニカーをかかえて都会に出た。その辺のいきさつは最初のアルバム『ボブ・ディラン』の中の「ニューヨークを語る」に詳しい。

見たこともない都会の雑踏の中、凍てつくような寒波に見舞われ、地下鉄に揺られたら、グリニッジ・ヴィレッジに着いた。ステージで弾いたら、いわれた。あんたのはヒルビリーみたいだが、ここじゃあフォークなんだ。「出直すんだな」。

歌やギターよりハーモニカが金になった。でももっとでかい仕事にありつけた。それは最初のアルバム制作だったのか。

みずからの名を冠したデビュー・アルバムには13曲が収録された。もっとも印象的なのは、ブルースっぽい歌い回しのしわがれ声で歌われた「朝日のあたる家」かもしれない。この曲を始め、トラディショナル・ナンバーが多数とりあげられている。自作曲はあの「ニューヨークを語る」ともう1曲「ウディに捧げる歌」の2曲だけ。ウディ・ガスリーは「我が祖国」の作者であり、階級闘争や労働問題などの告発者だった。ディランにとっては英雄そのものだった。

世界の「悪」への眼差し

最初のアルバムではソングライターとしての才能は開花していない、といわれる。しかしこの時点でそもそもディランは何が表現したかったのか、何を歌うべきかがわかっていたのか。そこでアルバムをめぐる時系列を確認しておく必要がある。

デビュー・アルバムの録音は1961年11月20日と22日の2日、リリースが翌年3月19日とある。ちなみに売り上げは5000枚程度にとどまり、ぱっとしなかった。これに対して2枚目のアルバム『フリーホイーリン』は全英チャートで1位になるなど、大躍進した。ボブ・ディランの顔ともいうべき「風に吹かれて」が冒頭に収められ、一躍、彼の名を知らしめた。アルバムの制作が1962年4月、アメリカでのリリースが63年5月である。第1アルバムとの間に何があったのか。

『フリーホイーリン』第6曲「激しい雨が降る」では象徴的で豊饒な言葉が堰を切ったように溢れ出す。歌詞に登場する「青い目の少年」の前にはシュールな光景が広がる。死の海に向かい合い、墓場の入り口に立っていた。目に映ったのは「狼の群れに囲まれた赤ん坊」「誰もいないダイヤモンドのハイウェイ」「血がしたたる黒い枝」「血まみれのハンマーを手にした男たちがひしめく部屋」「水に沈む白い梯子」「舌が破れた1万人のおしゃべり」「銃や刃物を持った子供たち」。聞こえたのは「警告する雷の響き」「全世界を飲み込みそうな波の轟き」「両腕が燃えるドラマーの演奏」「誰も聞いていない1万の囁き声」「飢えとそれを人々が笑う声」「排水溝で死んだ詩人の歌」「裏路地で泣くピエロの声」。等々、言葉は止めどなく饒舌に氾濫し、最後に「激しい雨が降る」が繰り返される。7分にも及ばんとする歌唱である。

「激しい雨が降る」の録音は1962年12月6日の記録があり、10月に作曲されたという。同じ頃、世界は震撼すべき事態に陥っていた。いわゆる「キューバ危機」である。アメリカの喉元ともいうべきキューバに旧ソ連が核ミサイルを搬入しようとした。当時のケネディ大統領はこれを阻止しようとし、海上封鎖を敷いた。世界は核の全面戦争への一触即発の危機に震え上がった。勝者も敗者もない、人類滅亡の戦争である。世界は凍りつき、緊張は社会の隅々に及んだ。たとえばボブ・ディランのアルバムにまで。

『フリーホイーリン』中の「第三次世界大戦を語るブルース」のような楽曲だけではない。むしろ「激しい雨が降る」にこそ核戦争の脅威がもたらすシュールな幻想を見るべきだろう。地球をも破壊する核の全面戦争に人類生存の道はない。ディランは、おそらくは、そこからノアの箱舟伝説を呼び起こした。旧約聖書では雨が降り続き、大洪水が起きて、人類は淘汰された。ただ預言者ノアの一族だけが生き残るのである。しかし神に選ばれた生存者たる善人は現代にいるだろうか。ノアの箱舟の現代版だとしても、核戦争では生存者は望むべくもあるまい。「激しい雨が降る」は恐るべき核への警告というよりは衝撃そのものだった。

次にディランの目が向かったのは、戦争の背後にある巨悪だった。『戦争の親玉』である(録音63年4月「激しい雨」の4ヶ月後)。短いヴァースは8番まであり、歌詞を換えるだけで、延々と音楽はループする。ブルースの発想だが、反復の執拗さが主張の激烈さと一致している。武器を売り、戦争の影に隠れ、一儲けしている輩がやり玉にあげられる。死の商人への攻撃は徹底をきわめ、最後のヴァースでは「おまえらの死を望む」という。そして、おまえらが葬られた棺が埋まる土を踏みしめて、死を確認する、と。

マスターズ・オヴ・ワー(戦争の親玉)とは絶対悪だというのである。やつらは地球の破壊者であり、死を宣告すべき、万死に値する存在である。

戦争への告発はいっそう間接的な形で名曲「風に吹かれて」に集約されている。また社会の悪に対する姿勢は、根深い黒人差別への抗議として「オックスフォード・タウン」にも見られる。『フリーホイーリン』には、当時のイギリス訪問からの産物であろう「北国の少女」など、恋の歌もある。しかし何といっても強烈な印象を与えたのは悪の告発ソングであり、現代の病巣を深くえぐり、絵巻物のように描き出す恐るべき詩の力だった。

第2アルバムが発するボブ・ディランの衝撃波を「才能の開花」と呼ぶのはたやすい。しかしその根源にあるものを見逃すべきではなかろう。明らかにディランはここで「いうべき何か」を発見したのである。それはわれわれの生命を危機に陥れている戦争であり、社会にはびこる不正だった。だが「いうべき何か」を見い出したということは自分自身の発見でもあった。

第1アルバムと第2アルバムの間の飛躍は自己発見だった。そしてそれを促したのが世界のめくるめく動向だった。環境がボブ・ディランを創造したのである。

相対的存在としての人間の姿

しかし『フリーホイーリン』にはもう1曲、重要な曲がある。「くよくよするなよ」である。男と女の別れの歌である。女はとどまって欲しいといってるようだ。しかし男は旅を続ける。空しい心に無念さを湛え、ふがいなさを呑み込みながら……。仕方がないんだ。どうしてこうなったのか。

詩のすべてを引用はできないが、重要と思われるポイントを見てみよう。詩は4つのヴァースからなる。まず「座り込んで、考えたってしょうがない。明日、旅に出る」と第1ヴァースで歌われる。2番は「明かりをつけても無理だ、おれは暗闇の側だから」という。二人の間にある超えられなかった溝が象徴的に示唆される。そして3番。「かつて愛した女がいた、子供ね、っていわれたよ 」「おれは心をあげたのに、彼女は魂をほしがった I gave her my heart but she wanted my soul」。「くよくよしてもしょうがない」。

端的にいおう。ここで問題だが、二人の「仕方がない」別れの責任はどこにあるのか。どちらが悪いのか。主人公があげた「心」とかつて愛した女がほしがった「魂」では、どちらが「重い」か? 一般的にいって、心は「思い」とか「気持ち」といったいい換えが可能かもしれない。しかし魂は霊的存在としての人間そのものなのかもしれない。つまりわたしの魂がほしいという女性に応えるには、全身全霊を捧げるということだろう。わたしにはそれができなかった。だから「子供ね」といわれたのか。

最後の第4ヴァースにはこういうラインがある。「きみはおれの貴重な時間を浪費しただけだった」「でもくよくよしない。それでいいんだ」。きみとの関係を時間の浪費だといってしまう主人公はやはり「子供」なのか。

二人の深い関係を続けることができなかった理由の一端が「こちら」にあるということになるのだろう。「浅い」関係ならよかったのかもしれない。しかし女はそれを望まなかった。つまりどちらが「悪い」というのは単純すぎるが、関係に求めるレヴェルが二人で違っていたということだろう。そして主人公はすべてを受け入れ、すべてを愛する立場にはなりきれなかったということであろう。

ここでは完全ならざる「人間」が等身大で現れている。その真実さは心を打つものがある。そこで思い出していただきたい。「戦争の親玉」に絶対悪の烙印を押し、死を宣告したあの主人公は自身が神だったのである。ところがこの神はたった一人の女に魂を捧げることもできない。人間は絶対などではありえない。いつも相対を揺れているのである。第2アルバムに現れたのはボブ・ディランのこの矛盾、分裂なのだった。