個人的な葛藤から普遍的地平へ―60年代のボブ・ディラン4

第6アルバム『追憶のハイウェイ61』はロックを確立したアルバムと評される。またここからビルボードのチャート2位に達するヒット・ナンバーが生まれた。「ライク・ア・ローリング・ストーン」である。しかしヒットの理由はやはりサウンドに起因するのだろう。詩はあいかわらず一筋縄ではいかない。

曲の主人公ミス・ロンリーは徹底的にこき下ろされる。むかしは羽振りがよかったよな。それが今じゃどうだ、食事を乞わなきゃならないとは。プライドも何もズタズタじゃないか。で、リフレインが来る。

どんな気持ちだい?
家が無いのは
みんなから完全に忘れ去られるってのは
まるで転がる石ころのようなのは

第2ヴァースは、昔、良家の令嬢だったミス・ロンリーの転落が残酷に描かれる。こうなってしまったら、以前は馬鹿にしていた悪魔にあんたの方から声をかけるだろう。お高くとまっていたくせに、あんたはちやほやされると誘いに乗ったもんだ。身ぐるみ剥がされるのも知らないで(第3ヴァース)。落ちぶれたやつの話を聞いて面白がってたあんた、今まさにその立場になった。社会的に消えた存在になったということ(第4ヴァース)。「どんな気持ちだい?」。

テーマは転落である。ヒット曲向きの内容とはとてもいえない。しかし昨今のSNS上に溢れる「バカ」「死ね」といったあまりにも直接的な、あるいは反知性的・非人格的な罵詈雑言をここに見るべきではない。そうするにはあまりにも文学的なのである。だとしたら、こんな徹底した否定が向けられる対象はひとつしかない。

ミス・ロンリーとは「わたし」だろう。

男であるディランがわざと自分を女性に置き換えたのは、対象をぼかすためだったに違いない。こうして表向きはある女性の転落を歌うことになった。しかし、そうすることで、シュールな幻想にどっぷりつかったこのアルバムの中で「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、逆に、ある種のストーリー性を帯び、表現はわかりやすくなったともいえる。かつての自分をどういう眼差しで見ていたかが示唆されるのである。そしてそこに映し出された自己を徹底的に否定・抹殺するのである。

リフレインにある「みんなから完全に忘れ去られる」とか、第4ヴァースの「社会的に消えた存在」とは、フォークからの転向を図った時、ディランの脳裏をかすめたに違いない。リアルな体験だったに違いない。「そうなってしまうかもしれない自分」を想像することは、身震いするほどの恐怖だったはずだ。

フォークを捨てることは転落でもあった。しかし転落から見えてくる景色もあるかもしれない。転落はひょっとしたら解放かもしれない。死は復活へのプロセスかもしれない。実際、そうなったのだった。

問題の普遍性

アルバム『追憶のハイウェイ61』はブルース・ナンバーが多い。少なくとも全9曲中6曲までがブルース形式やその変形を繰り返し(リフレイン風のフレーズが付くこともある)、意味不明の言葉がちりばめられる。形式の単純さと歌詞の複雑さの均衡という、前アルバムの方法論の踏襲である。「ライク・ア・ローリング・ストーン」「クィーン・ジェーン」はブルース・コードではないものの、リフレインを伴う有節形式(1番、2番、3番……と歌詞が変わるだけの形式)で、単純であることに変わりはない。しかし「やせっぽちのバラード」はちょっと違うサウンドを聴かせる。

「やせっぽちのバラード」を評してアル・クーパーは「アルバム中もっとも音楽的に洗練された曲」といったとか。リフレイン付の有節構造が基本だが、あまりコントラストがないサビまであるようだ。しかし何といっても、同一コードにベースだけが下行する和声スタイルが興味深い。似たような過去の例では、たとえば「時代は変わる」がある。ただあの曲ではベースとともにコードもチェンジしていた。ここではコードとスライドするベースの間の不協和な軋轢が曲の幻想を深める*。

*この和声法の進展には、興味深いことに、ビートルズとの平行関係が見られるようだ。下行するベースに対してコード・チェンジ「する」→「しない」の推移である。「時代は変わる」の録音は1963年10月(リリース64年1月)、「やせっぽちのバラード」は同じく65年8月(リリースも同じ)である。ビートルズの曲だと、ジョン・レノンが作曲した『エニタイム・アット・オール』(録音1964年6月)とポール・マッカートニー作の「ミッシェル」(同じく65年11月)が同じ経過を辿る。録音の日付を見る限り、ビートルズはディランの和声スタイルの影響を受けていたのだろうか。「やせっぽちのバラード」などジョージ・ハリソンの「ワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を彷彿とさせる。ただしビートルズはより洗練されているが、ディランのブルージーな味わいも捨てがたい。

歌詞の世界も興味深い。アルバムの多くの歌詞について「意味不明」といったが、「やせっぽちのバラード」では「意味不明の意味」が浮かび上がってくるようだ。

第1ヴァースは唐突にこう始まる。「部屋に入ったら、裸の男が立っていた」「あいつは誰だ」「必死に考えても、わからない」「家に帰ったら、何といえばいいやら」。第2ヴァース「それはここか?と聞く」「彼のものだ、という応え」「おれのものは?」「何が?どこ?」。周りの世界との不気味なちぐはぐさは、曲の進行とともに、暗雲のように広がる。そしてリフレインが楔を打ち込む。

だって ここで何かが起こりつつあるのだから
だがそれが何なのか あんたにはわからない
そうだろう? ミスター・ジョーンズ

ありえない状況の中にミスター・ジョーンズは突然投げ込まれたのである。そこは自分の場所ではない。問答はすべてすれ違いで、噛み合わない。いわば世界の文脈から自分は、自分だけが、切り離されているようだ。しかも自分の知らないところで何かが進行している。それがわからない恐怖の刃は研ぎ澄まされている。シュールである以上に究極の恐怖が忍び寄る。

これをたちの悪い冗談だというなら、たとえばカフカの『変身』(1912年)の恐怖も絵空事だということになる。小説の主人公ザムザは、ある朝、目覚めると、毒虫に変身していた。周りとの意思疎通は完全に絶たれ、家庭から、仕事から、世界から閉め出される。何しろ毒虫であり、厄介者だ。彼がいなくなった世界は再び美しい時間をとり戻した……。

ミスター・ジョーンズ氏に起きたことも、ザムザの体験と遠くなかっただろう。実際、ある日、突然、身に覚えのない罪を宣告され、投獄されるという事態は恐怖政治のもとで今日でもありえる。そこまでいかなくても、現代社会なら、降って沸いたように、SNSでさらされ、集中砲火を浴びて、炎上するということがないとはいえまい。それが冤罪だとしてもどうなのか。「それは自分じゃない!」と叫んでも、どうなのか。考えただけでも恐ろしい。

つまりこれはわたしは何によって「わたし」たりうるかという問題に帰結する。「わたしはわたし」などという素朴な前提は崩壊する。まわりが、あるいは当局が、「これがおまえだ」といったら、わたしはどうなるのか。世界が「おまえは毒虫だ」と認識したら、どうなるのか。いうまでもなくアイデンティティの問題であり、ミスター・ジョーンズに起きた状況は誰にでも妥当する。それはあなたにも、われわれにも起こりうる。

人は、わたしは、そんな危うい生を歩んでいるのかもしれない。ボブ・ディランにとってはそれは現実となった。フォーク・シンガーを捨て、若者のヒーローを辞める時、「おまえはもうボブ・ディランじゃない」といわれ、罵倒され、石を投げられたかもしれない。ディランを襲った恐怖はミスター・ジョーンズの目眩がするような戦慄と別ではなかったろう。

アイデンティティの問題はすでに『アナザー・サイド・オヴ・ボブ・ディラン』から潜在していたが、ここで一気に吹き出したかに見える。ある程度、時間を置くことによって、そして新しい軌道に乗ることによって、当時の深刻な危機を直視できるようになったのかもしれない。それは「ライク・ア・ローリング・ストーン」も同じだったろう。そして「やせっぽっちのバラード」によって、ボブ・ディランは個人的な体験から人間存在の普遍的な問題へと到達したのである。

ミスター・ジョーンズ氏は「あなた」にもなりうるのである。