何が男を決断させたか―『愛と青春の旅立ち』『プリティ・ウーマン』

大ヒットした2つのハリウッド映画、一見、何の共通点もないように見える。いや、そうでもないか。『愛と青春の旅立ち』(1982年)は士官候補生の奮闘記。士官学校の周辺には候補生をゲットしようという娘たちがたむろしている。誰かと結婚できれば、貧しい境遇から脱出できる。結婚は旅立ちでもある。一方『プリティ・ウーマン』(1990年)はお金持ちの御曹司のお話。ひょんなことから売春婦と知り合い、結婚にまで至る。両方とも主演がリチャード・ギアで共通しているのだが、最終地点が結婚というのも同じである。

もっと近づいてみると、共通点がたくさんあるではないか。『愛と青春の旅立ち』の主人公ザック・メイヨは、13歳の時、母親が自殺し、生き別れになっていた父親に引きとられた。彼は妻を自殺に追いやった張本人でもあり、酒と女に溺れた生活破綻者だった。『プリティ・ウーマン』でも父親についての情報は多くない。実業家のエドワード・ルイスの母親は音楽教師だった。父親の浮気によって、両親は離婚を余儀なくされた、エドワードは彼の会社を乗っとって解体し、復讐を果たした。父親の葬儀にもエドワードは出席しなかった。エドワード自身の結婚もうまくいかず、離婚調停中。二人の主人公の共通の通奏低音は父親への「憎しみ」か。

深いところで人間不信に凝り固まった主人公たちだが、ある女性との出会いが待っていた。ザックは懇親パーティでポーラ(デブラ・ウインガー)と知り合い、間もなく深い仲になる。「プリティ・ウーマン」のヴィヴィアン(ジュリア・ロバーツ)は、もとは勤労学生だったが、今は売春婦に落ちぶれている。とはいえ「性のプロ」であることに変わりはない。つまり男と女の関係性におけるセックスの問題はここでは相対的ではあれ、絶対的ではない。

皮肉なことに、二人の主人公たちの両親の結婚が破綻したのは不貞が原因だったが、基本的には何も変わっていないことになる。端的にいって、セックスを保証するものとしての結婚という古典的な発想?はここにはない。もちろん愛と性の重要性は疑うべくもない。しかしたとえば『プリティ・ウーマン』の設定では、性は「売る」「買う」の関係に還元されてしまっている。男と女の関係性の深みにおいて最初から消去されているのである。ひょっとしたら「愛」だって、危ういかもしれない。では結婚とは何なのか。何が男にそれを決断させたのか。

あなたって、何にも創ってないじゃない?

ヴィヴィアンは高二中退で学歴こそ貧弱だが、旺盛な生活者だった。友人の高級マニュアル車を借りて、ギアを壊しそうになっていたエドワーにいった。「4気筒なのにすごいパワーね」「コーナーワーク抜群」「ギアの入れ方が変」。運転に悪戦苦闘していたエドワードは「代わらないか」と一言。ヴィヴィアンは水を得た魚のよう。しかも「これ足の小さい女性向きね」とか御託を並べるのだが、ちゃと根拠があるようだった。理系というよりは、合理的な精神をうかがわせる。エドワードに欠けていたものである。

ヴィヴィアンはデンタル・フロスを愛用こそすれ、クスリには手を出さないという信念をもっていた。上流階級の作法とは無縁だが、やる気はあった。エドワードの方は不器用で、ネクタイもろくに結べない。カードがあればすべて解決、と思っている。お洒落なおもてなしで、彼女の気を惹こうとするが、単なる社交辞令なのか、カッコつけなのか、駆け引きなのか、それともただの金持ちの気前のよさなのか、おそらくは自分でもよくわかっていない。彼女との「契約」の延長を宣言した時も、「これはビジネスだ」と明言した。しかしその後も、ビジネスライクどころではなく、二人はいちゃつき、接近する。どこまでが本気で、どこまでがビジネスなのか? まあ、いい。ヴィヴィアンには大金が転がり込む。楽しめばいいのだ。だが、結婚はない。

美人できれいな「プリティー・ウーマン」。何でも着こなし、かっこいいことこの上なし。男だったら、鼻の下を長くして、見せびらかしたいだろう。でも結婚とは別。

ヴィヴィアンには売春婦になった時の教えがあった。客とキスしてはならない。本気で好きになってはいけない、というのである。ヴィヴィアンはこの掟を破った。二人の関係が深まり、ベッドでお互いの胸襟を開くシーンは、初めて個人的な領域に触れる重要な段階となる。しかしそれとて結婚に結びつくことはない。ただの「惚れた」で何とかなるものか。別れ際に、エドワードは成り行き任せにパトロンになろうと申し出た。ヴィヴィアンは断った。「わたしはずっと白馬にまたがる王子様を待っていた、でも王子様は『囲ってやる』なんていわない」。

実は決定的と思われる場面があった。二人の出会いの最初の頃なのだが、ヴィヴィアンはこういったのである。「あなたは大金持ちの実業家のくせに、自分では何も創っていないのね。ただ買い叩いた物件をバラバラにして売るだけじゃない。それって、盗んだ車をパーツにして売りさばくのとどこがちがうの」。一瞬の間があった。「でもこっちは合法だ」。エドワードがいい返せたのはこれだけだった。

ヴィヴィアンの言葉はエドワードの心に突き刺さった。「解体業」は父親に復讐するためのかつての手段だった。今はそれを安易にやり続けてるだけではないか。いつまでも怨念を引きずり、過去を生産的に精算しようともしてない。解体屋はそこから成長しようともしない生きざまの象徴ではないか。彼はまだ自分の足で立って人生を歩んではいない。金が入るからといって、ぬくぬくと過去に生きているのである。

次の標的にした造船会社の社長に対して、エドワードは微妙なシンパシーを感じてはいた。しかし冷徹な彼はついに買収へと追い詰めた。ところが交渉の最後の段階になって、一転、提携を提案してしまう。さんざん苦労した計画と大金がフイになり、造船業と手を組むことになる。ヴィヴィアンのあの言葉が心に深く刻み込まれていたからとしか考えられない。

彼女との契約期限は切れ、二人は離ればなれに。しかしエドワードは魂のカケラの欠落を感じたのだろう。失って初めて気づくというよくあるパターン。彼は花束を抱え、リムジンでヴィヴィアンを迎えに行く。

わたしはそうは思わない

『愛と青春の旅立ち』(現代は「士官と紳士 An Officer and a Gentleman」)のヒロイン、ポーラの性格ははっきりしている。彼女の友だちリネットがまるで陰画のようにポーラ像を浮かび上がらせているからである。

リネットは懇親パーティで知り合ったシドとすぐにねんごろになった。そして、彼を繋ぎとめるために、妊娠したかもしれないと漏らす。ザックは「お楽しみだけで充分だ。別れろ」という。だがシドは真面目だった。自分の子供ができたことに喜びさえ感じた。しかし、そうなると、士官候補生を続けることはできない。彼の家族は軍人の栄えある家系だった。だがもうどうでもいい。自分の子供を、リネットの愛を信じる。シドは士官学校を辞めて、どこかで幸せに暮らそうとリネットに持ちかけた。

彼女の態度は一変した。妊娠は嘘だった。彼女の愛の対象はシドその人ではなく、士官としての贅沢な将来なのだった。プロポーズしたシドに投げつけた言葉は「士官でもない人と結婚しない」だった。シドが選んだのは自殺だった。

リネットは、ある意味、士官候補生に群がり、幸運にも射止め、結婚に辿り着き、どこか素晴らしい世界へ旅立つという奇跡を願う娘たちの代表だったのだろう。しかしこの陰画に対して、ポーラは陽画として浮かび上がる。

ポーラもその手の目論見と計算ずくめの女だろうぐらいにザックは思っていたはずだ。何せ人間不信に凝り固まった男である。彼女の家を訪れた時、気まずい雰囲気が流れた。ポーラの妹のザックを見る目はなまめかしく、獲物に向けられたようだった。父親は再婚で、本当の父親はかつて士官候補生だった。「そうか、ポーラの母親もそうだったのか、だから娘も士官目当てに玉の輿に乗るつもりなんだ」。そう思っても当然だったろう。

しかしポーラは決してザックを繋ぎ止めようとはしなかった。リネットが妊娠の嘘をついた時、ポーラはひどく怒った。彼女は「愛している」とはいったが、「結婚」、あるいはその類いの言葉は絶対に口にしなかった。またそのための「工作」もしなかった。愛を餌にしたくはなかったのである。あくまでもザック次第なのだが、彼は愛を信じていなかった。

とはいえ、二人がベッドをともにするのにそう時間はかからなかった。その場面で、見過ごされがちだが、重要なポイントがある。DVDでの監督の説明によると、ちょっと描写が濃厚すぎるかと思われたが、絶対にはずせなかったという。この映画を理解する鍵となるシーンと見た。

情事の後でのピロー・トークで、ザックはがらにもなく身の内話を始める。しかし不幸な生い立ちや父親への恨みと怒りではなかった。おそらくは初めて明かす心の傷だった。「お袋はクスリを飲んで死んでしまったけど、どうして黙って、何もいわないで、逝ってしまったんだ!」。そんなつもりはなかったろうが、同情を誘わないではおかない。ポーラも「かわいそうに、つらかったでしょう」。「いいや」。

そしてザックはみずからの人生哲学を吐露する。「きみがどんな人に囲まれていようと、どんな環境にいようと、この世では独りなんだ。それを悟れば、何もつらいことなんてない」。所詮、人は絶対の孤独にある。女はこれにどう応えるだろう。共感するか、男の戯言だと受け流すか。ところがポーラはこういったのである。

原語は“I bet most people believe you when you feed’em that line.”である。直訳的には「賭けてもいいわ。あなたのそんなセリフ、みんな信じるでしょうね」とでもなるだろうか。つまり「わたしは信じない」というのである。ポーラの皮肉っぽい笑みを浮かべた顔からも明らかである。一瞬、ザックは真顔でポーラの顔を見た。

もしも男の気を惹いて、結婚にこぎ着けようとするなら、大いに同情し、共感するふりをしたかもしれない。涙を流したかもしれない。そこまでいかなくても、あまり深入りせず、あたりさわりのない言葉でごまかすこともできる。しかしポーラは違った。変化球ではあるがこういったのである。「みんなは信じるかもしれないけど、わたしはそうは思わない。人間は独りじゃない」。

ポーラの言葉はザックが人生の荒波から学んだあらゆる処世術やマニュアルにはなかったはずである。それはザックの魂に響いたはずである。そして彼にポーラとの結婚を促したものがあったとすれば、「人間は独りじゃない」という彼女の信念だっただろう。

魂のハーモニー

映画での都合上「男」が結婚を決意する設定になってはいるが、そして以後もその前提で書き進めることになるが、男と女の立場は、当然、交換可能なはずである。

『プリティ・ウーマン』でも『愛と青春の旅立ち』でも、男の存在の核心を突いた言葉が彼らを動かしたように見える。いわゆる「女性的なもの」の数々、美しさ、セクシーさ、柔らかさ、優しさ等々、女性の魅力とされるものは大前提ではあるが、少なくとも映画では、結婚にとって二の次のようだ。今でいう「女子力」など問題にならない。

実はヴィヴィアンが指摘したことは、儲け本位の「壊し屋」にどまるエドワードに成長を促す言葉だった。復讐に生きている過去向きの生を未来へ転換する一言だった。同じように、ポーラの言葉も、物知り顔で世間を斜に構えて見ているザックへの一撃だった。そこに男たちはみずからの成長の可能性を感じたに違いない。お互いに高め合うものを感じたに違いない。相手を甘やかし、ぬるま湯につかって、お気楽な生活をおくるのが結婚なのではない。エドワードとザックは人格の形成・成長にかかわる因子を彼女たちの中に発見したのである。

だからこそ、男の中にある向上心がなければ二つの物語は成立しないことになる。さらにいおう。この向上心とは何か? それは彼女たちの言葉が心に響いたということにほかなるまい。「響く」というのは共鳴である。たとえばポーラが「人は独りじゃない」といったとき、ザックの心は逆の思想で膨れ上がっていただろうが、魂の奥底で同じ思いがあったとしか考えられない。だからこそそれが共鳴し、共振して、魂でつながったのである。同じように、壊し屋で大もうけしていたエドワードの魂にも何か物足りなさがあった。ヴィヴィアンはそれを打ち抜き、揺さぶったのである。その時、魂が震え、ハーモニーが生まれたのである。

だからもし魂の奥に震えるものがなかったら、共振しようがない。ハーモニーは生じない。男に、あるいは女に結婚を決断させるものがあるとしたら、この魂のハーモニーなのだろう。

共振し合えるものがお互いの魂にあること、それを世間では「縁」というのかもしれない。