ヒッチコック的恐怖の現代性―『裏窓』の場合

ヒッチコック映画の恐怖は人間の深部に根ざしており、時代を超える。

昔「ヒッチコック劇場」なるTV番組があった。短編だが、わが少年時代を得体の知れない恐怖で捕らえた。今でもトラウマのように痕跡を残している。かつてはその理由がわかるはずもなかったが、今なら多少は理解できているかも。ヒッチコック的恐怖のなんたるかである。たとえば正確ではないが「死人の脱走」というタイトルだったか?こんなのがあった。

刑務所に服役中の男がいた。彼がそこから出るすべはなかった。しかしたったひとつ方法があった。死人が出た場合、棺に納められて、刑務所外の墓地に移送され、埋葬されるのである。そこで男は考えた。「あの棺に身を潜めれば、外に出ることができる」。何らかの方法で墓堀人と連絡をとり、埋葬した後、掘り返してもらうようにした。ついにその日が来た。刑務所内で死者が出たのである。男は首尾よく棺に滑り込んだ。いつもより棺が重いのに運搬人の誰も気づかなかった。墓地に着いて、地中に埋められた。すべてがうまくいった。しかし変だ。棺の闇の中、死体と重なり合って、掘り返されるのをひたすら待つが、いつまでたっても物音ひとつしない。男はマッチを擦ってみた。おぞましい棺の中が照らし出されたが、その炎ももはや微弱だった。酸素が薄くなったようだ。深い闇へフェイド・アウトして物語は終わる。

ぞっとするような話ではないか。しかしぞっとする根拠は何か。死体それ自体への恐怖という大前提を置くとしたら、まず闇である。棺の中を支配する闇。わたしなど、子供の頃、闇が怖くて、夏でも布団を頭からかぶったものだ。しかしこの短編を観て、布団の中さえ怖くなった。闇こそはあらゆる恐怖の根源ではないかと思わせる。

さらに「棺の中」という設定に、いうにいわれぬ恐怖を感じないだろうか。狭い空間に押し込められた恐怖。子供の時、壁や天井が異様に迫って来る夢で汗びっしょりになり、目が覚めたことが何度となくあった。つまり閉所恐怖症だったのだろう。これは理屈ではない。個人差もあるだろう。しかし閉所であるというだけでなく、閉所という想像さえも、理性を狂わせるものがある。少なくともそういう人にとって「棺の中」という設定は恐怖という以上のものがある。

つまり『死体の脱走』は闇と閉所恐怖症という仕掛けによって、理性を超えた、ほとんど本能的な恐怖に陥れるのである。人間の本性に根ざすがゆえに、得体が知れず、永続的なのである。

映画『裏窓』(1954年)の場合はどうか。ヒッチコックの中でももっとも人気が高い作品だろう。骨折して車椅子生活を余儀なくされたカメラマン、ジェフ(ジェームス・スチュアート)が、中庭越しに見た集合住宅の裏側を描いている。ある意味、これは「密室もの」である。物語の舞台はあくまでもジェフの部屋であり、そこからお向かいさんたちのさまざまな人間模様が映し出される。外の表通りは建物のわずかな間から少し見えるだけ。

ヒッチコックの「密室もの」といえば、有名な『ロープ』(1948年)がある。場所の限定もさることながら、カットを排したロング・ショットによる息づまる緊迫感を湛えた実験的な作品だった。またより古くは『救命艇』(1943年)がある。第2次大戦中、ドイツのUボートによって沈められた客船の救命艇で、奇しくも乗り合わせた人間たちのドラマである。わたし個人としては『救命艇』はヒッチコック作品の中でももっと深遠なテーマを扱っていると感じている。

『裏窓』には前作のそうした緊迫感はない。少なくとも、最初はそうだ。集合住宅の裏側はまた人生の裏側でもある。日々展開される生活には、笑いを誘うものから痛切なものまでさまざまである。ヒッチコックはそこに皮肉が効いたヒューマニストとしての眼差しを向ける。

季節は夏。開け放たれた窓から色とりどりの生活が目に飛び込んでくる。そこに生き生きとした音が飛び交う。雑多な生活音から売れない作曲家のピアノの音、そしてソプラノの発声練習まで。あられもない格好で練習にふけるダンサー志願の「ミス・グラマー」の部屋には男客が絶えない。新婚ほやほやのお盛んな夫婦がいるかと思えば、狭いベランダで寝る倦怠気味の老夫婦がいる。喧嘩に明け暮れる夫婦は真向かいだ。恋人を招き入れる独り芝居をするオールド・ミスもいる。誰かを求めながらかなえられず、彼女「ミス・ロンリーハート」は自殺を図ろうとさえする。等々……。

こうした描写が猥雑にも陰惨にもならないのは、輝くようなリザ(グレース・ケリー)のなせるわざだろう。富豪の娘でありながら、明日をも知れず現場を飛び回るカメラマンを愛してしまった女性。当然、ジェフは金持ちなどではない。自分の人生にはなかったスリリングな生き方に惹かれたのか、ジェフが二人の境遇の違いをいくら説明しても、リズの熱は一向に下がらない。彼女は泥沼に咲くハスのように、凜として、現実の暗さや不条理を超越する。ジェフの部屋に彼女が現れる時、そこはファッションショーの会場と化すかのようだ。二人の軽妙な会話のやりとりにも味わいが尽きない。

そんな平凡な日々の中に異変が起きた。日がな一日、暇をもてあそぶ車椅子生活者が目撃してしまったのである。真夜中に、例の夫婦喧嘩が絶えない部屋から、夫がスーツケースを持って外の雨の中を出ていった。しばらくして戻ってきたかと思うと、また行く。手にはやはりスーツケース。そんなことが3度繰り返されたが、翌日から妻の姿はなかった。目撃者の妄想は一気に膨らんだ。カメラの望遠レンズでノコギリと肉切り包丁を確認した時、妄想は確信に変わった。

さてここからの展開は観てのお楽しみとしよう。実はここまででぞっとするような恐怖はまだない。妻を切り刻むシーンがあるわけでもない。そんな野暮なことはやらない。恐怖は思わぬところからやって来た。

証拠を探しに男の部屋にリザが忍び込んで、物語は急展開する。首尾よく発見したものの、帰ってきた男と出くわすはめになる。一挙に緊迫感のメーターが跳ね上がる。警察が駆けつけて、何とか一難は逃れたかのようだったが、次の瞬間『裏窓』最大のスリルが訪れる。手で証拠の指環を示し、リザが向かいの部屋のジェフに合図を送るのを、犯人が見てしまうのである。男は気づく。一部始終をのぞき見していた者がいる! 何と、中庭越しの隣人じゃないか。望遠レンズ越しにジェフと犯人と目が合った! 

「おまえだったのか!!!」

これまでジェフはいわば「観客」だった。犯行が行われる現場から見えないところで、まるで異次元からのぞき見していたのである。ところが犯人に発見され、正体が明かされることで、一変する。犯人と同じ舞台に立つ「共演者」となってしまったではないか。傍観者が、突然、当事者になったというべきか。少なくとも、すぐに手が届くお隣さんとなった。これはやばい、やばすぎる。この急展開は、底知れぬ戦慄を呼び起こす。

現代のSNSの世界でいえば、膨大な情報の受信・発信は匿名性のもとで展開している場合が多い。むしろ身元や個人情報が秘匿されていることが個人の安全の基盤となっているといえよう。ところがアドレス、電話番号、住所、顔といった情報が流出してしまい、発信者がすぐに特定されてしまうとどうなるか。匿名で自由な書き込みをしていて、急に身元が明かされたらどうなるか。その恐ろしさははかりしれない。悪用される危険性は無限にある。もしも全体主義的国家が個人データを管理し、国家的陰謀のために利用するとなると、「個人」さえ消滅するかもしれない。恐ろしい。

『裏窓』でまさにそれが起きたのである。目撃者の身元がばれた恐怖は現実となる。おれを窮地に追い込んだのは「あいつ」だ。犯人はジェフのドアをノックし、乗り込んでくる。なぜなら目撃者は今やはっきりしているから。同じ集合住宅の、同じ現実を生きている人間なら抹殺できる。ちょうど殺害の証拠に気づいた犬を殺したようにである。しかし物語の成り行きについては、これ以上書かない。最後のヒッチコック的「落ち」についても同様である。

つまり『裏窓』は、のぞき見といういかがわしいテーマを扱っているように見えて、それが犯罪に適用される場合のきわどい一線を越えて、われわれを守っている匿名性の問題にも触れている。これは現代ではきわめて重大な問題だろう。1950年代でヒッチコックがそこまで考えていたかどうかわからないが、来たるべき未来までの射程が可能な掘り下げであったことは間違いない。

もしもわれわれの個人情報がネット上で白日のもとにさらされてしまったら、どうなるか。闇や閉所恐怖症といったレヴェルではないかもしれないが、情報化社会に生きる人間にとっては新しい本能的恐怖といえるかもしれない。