魑魅魍魎の巣窟に天使が降りる―マーラー『第9』第3楽章ロンド・ブルレスケ

マーラー『第9』最大の難所は第3楽章かもしれない。長大で複雑な第1楽章は別格として、第2楽章は「比較的」、人気のある第4楽章は「一貫して」一義的である。それに対して第3楽章は多義的、というより相反するものが混在している感がある。

楽章は「ロンド」と指示されているが、古典的な循環形式ではない。形式的には三部形式ABAの枠組みがある。まあ断片的な主題が何度も戻って来ることはあるが、むしろ舞踏としての「輪舞(ロンド)」を見るべきなのかもしれない。Aでは騒がしくもおどろおどろしい宴が繰り広げられるからである。「ブルレスケ」はイタリア語「ブルレスコ burlesco」に由来し、「冗談」 「嘲笑」「悪ふざけ」を意味する。

曲はソロ・トランペットの一吹きで始まる。

音型で特徴的なのは、 Gis-D(実音 Cis-G)の進行である。音程的にはこれは増4度ということになる。増音程の声部進行は古典和声では禁則(増1度=半音は除く)。伝統的に増4度=三全音は「音楽の悪魔」と呼ばれ、忌避されてきた。Gis はAへ上行、D は Cis へ下行する潜在的な指向性を秘めている。だから2つの音の間で音楽の自然は引き裂かれる。実際の楽曲では特別に使用されもするが、ここでは曲の頭で、これ見よがしに、さらけ出される。

明らかに意図的であり、「悪魔」がひょっこり躍り出たかのようだ。ブルレスケが「冗談」だとしても、そこには悪魔的なもの、ある種の毒が含まれている。加えられた「非常に反抗的に Sehr trotzig」という指示が示しているように、ひねくれた陰湿な底意が透けて見える。マーラー的世界、全開といえよう。魑魅魍魎の輪舞の、あるいはレースの始まりである。

ところが、このレースが350小節ほど続くと、突然、シンバルの一撃とともに、異次元の世界が啓かれる。地獄のただ中に訪れた天国か。中間部Bである。

妖怪たちは退散し、ヴァイオリンの高弦の光芒のもとで、トランペット・ソロが天上の調べを歌う。冒頭で悪魔の出現を告げたあの同じトランペットが!である。途方もないこの落差もきわめてマーラー的というしかない。

しかし、実は、この旋律(下の譜例中)はすでに混濁したレースに参入していたのだった。中間部の直前、第320小節に、フォルティッシモで出ていたのである(譜例上)。だがターンの音型の優美な面影は微塵もない。譜例2小節目の高いナチュラル A は9度という突拍子もない跳躍を伴い、かろうじてエンハーモニック的な和声で支えられているものの、違和感を禁じえない。「天上の調べ」の前触れであるとしても、滑稽に歪められているのである。この歪みはBの後半でいっそう顕在化し(たとえば第445小節では減10度の跳躍となる)、悪魔たちは奇声を上げて主題をからかい、堕としめるかのようだ。

まさにブルレスケである。創作のレヴェルでいえば、ブルレスケ(英:バーレスク)とは、真面目で真剣な主題や表現をあらゆるレヴェルでからかい、笑いものにする文芸作品を指す。トランペットで出る「天上の調べ」は続く第4楽章でもとり上げられ、それこそ大真面目に展開される(譜例下)。したがって、第3楽章の中間部はフィナーレの予告でもあった。しかしそれが真面目であればあるほど、格好のカリカチュア化の対象となるのである。主題は中間部でもいっそう表現が掘り下げられ、しみじみとした内声の歌となる。しかし、何度となくグロテスクな歪曲化の標的となり、コケにされるのである。そして再び怒濤のようなレースが押し寄せる。

それにしても、あの中間部のスコアには何か驚くべきものがある。一般的に天上の調べを奏でる楽器とは何か。連想されるとしたらフルートやハープか。もっとも連想されない楽器があるとしたら、トランペットではないか。マーラーはまさにそのトランペットを選んだのである。なぜ?

伝統的にトランペットは戦争の楽器であり、栄光を讃えるファンファーレの楽器である。それはハイドンの『軍隊』の第2楽章に轟くラッパであり、ベートーヴェンの『荘厳ミサ曲』「アニュス・デイ」で「外」で迫り来る戦乱を示唆する楽器であった。古典派の一般的なオーケストラでは、トランペットはティンパニとセットで用いられるのが普通で、打楽器的な扱いだった。それが旋律楽器として「発見」されていく過程が歴史となる。そうした流れを想定したとしても、あのスコアリングには何か異常なものがないか。 

トランペットといえば、交響曲第1番冒頭の薄明の中で最初にくっきりと浮かび上がった楽器だった。一方、マーラーの人生の薄明でもトランペットは重要な意味をもっていたのかもしれない。幼少期のマーラーの環境は決して明るくはなかったようだ。豊かとはいえない家庭に両親の不和、それに兄弟の死など……。そうした中で、近くのオーストリア軍兵舎から聞こえてきたラッパの音は、マーラー少年の心に深く、鮮やかに刻まれたのではなかったのか。それは点呼のための信号にすぎなかっただろう。だが暗い現実に差し込む一条の光のように響いたのかもしれない。トランペットの音はいわば幼少期に染みついた天国のイメージだったのかもしれない。そうした個人的なものを想定することなしに、あのスコアを理解するのは難しいようにも思える。

しかし、いかに特異とはいえ、マーラーの直観は正しかったのだろう。フルートでは甘すぎて、あまりにもパラダイス的すぎる。必要なのは浮世離れした音ではない。超絶的でありながら、どこか現実的な音。くっきりした輪郭で、透明で、素朴な響き。大人の常識が聞くトランペットとは別の、無垢な心がとらえた響きだったのか。天国は大人になって見る夢ではない。子供の時の現実だった。

かくして戦争の楽器、「外」の楽器、トランペットが、弱音で、天国の調べを歌うことになる。

ロンド・ブルレスケの演奏をめぐって

全く異質な音楽の並置が第3楽章の解釈=演奏を困難とした。特にAからBへの唐突な移行部分のスコアをもう一度ご覧いただきたい。マーラーはそこにテンポ変更の指示をしていない。しかし地獄Aと天国Bが同じテンポであるはずはないだろう。楽章の最初の指示は「アレグロ・アッサイ(非常に速く)」である。魑魅魍魎の輪舞がそうだとしても、天上の歌がアレグロ・アッサイか? だからたいていの演奏ではここでがくんとテンポを落とす(そのやり方はいろいろありうる)。次の例はカラヤン/ベルリン・フィルの1982年のライヴである(カリカチュア化されたBの主題登場前あたりから)。

指揮者でもあったマーラーにとって、二つの音楽が別のテンポに属することは誰よりもよくわかっていたはずだ。特に彼は何でも事細かにスコアに書き込みたがる指示魔でもあった。だから、Aに戻るところで(522小節)、わざわざ「テンポ・プリモ・スビト(直ちに最初の速さで)」と書き込んでいるのである。

そこで解釈が必要となる。なぜマーラーは複縦線のところでより遅いテンポを指示をしなかったのか。それなのに、なぜ後でもとに戻せと書いたのか。

AとBの音楽が異なるのと同じくらい、二つが切り離され、分裂することがあってはならない。Bでテンポを緩める指示を出すと、世界の違いを示すことになり、さらに緩みっぱなしになるだろう。こうして両者に亀裂が走ることになる。音楽家として中間部でテンポを落とすのは当然である。音楽の進行とともに、徐々に遅くなるように書かれてもいる。だから「最初のテンポで」の指示は必要だった。しかしあくまでも音楽を弛緩状態に陥らせてはならない。

こういうマーラーの声が聞こえるようなのだが、どうだろう。中間部への入りで大きなテンポの断絶を望んでいなかったことは、トランペット・ソロへの指示「p subito poco espressivo (直ちに弱音で、少し表情を込めて)」にもうかがわれる。「表情豊かに」なら、音楽のニュアンスは増し、そのためテンポは遅くなりがちである。しかし「少しpoco」という指示によって、表現にのめり込んで、テンポを緩めるなという意図が読みとれる。なおこの後、表現はより濃密となる。381小節目には第1ヴァイオリンに「molto espr. 非常に表情豊かに」、394小節目にはスコア全体に「Mit großer Empfindung 大いなる感情を込めて」と指示される。音楽はだんだん遅くならざるをえない。

確かにカラヤンの演奏では中間部で音楽は滔々と歌い、美しく、豊かで、ゴージャスな世界が広がる。しかしマーラーの世界から離れていくようにも感じる。

しかしテンポを目立って変えて欲しくないというマーラーの意図?が無理難題なのもわかる。それはちょうど嬰ハ短調のファンファーレをB管トランペットで吹かせる意地悪ともとられかねない書き方にも通じるものがある。ロンド・ブルレスケの場合、テンポ設定にはさらに課題がある。Aに再現にはさらに二段階のテンポ・クレッシェンドがある。

だから最初のアレグロ・アッサイで威勢よく飛び出したら、最後のテンポ・アップで困難が待ち受ける。また中間部でやたらとテンポを緩めた感を与えない配慮も必要である。ワルターの演奏がやや遅めなのは、これらすべてを見越した設定であるという説得力を持つ。とはいえアレグロ・アッサイをあまり遅くすると、悪魔じみた輪舞の熱量が落ちる。ほとんど不可能ともいえる可能性を可能な限り実現した演奏は、バーンスタイン/ベルリン・フィルかもしれない。


それにしても、天国と地獄を完全に切り離そうとしなかったマーラーの意図には、彼の世界観が透けて見えるように感じる。俗悪なるものと聖なるものは別々に並置されるのではない。ひょっとしたら、重なり合い、共存しているかもしれないのである。