現代の失楽園―『卒業』

60年代を飾るいわゆるニュー・シネマの名作である。ダスティン・ホフマンが主演し、サイモンとガーファンクルの音楽が彩る青春ドラマ。だが皮肉なことに、学校を卒業したのに、主人公は無為にくすぶり、危うい道を歩んでしまう。卒業とは何なのか。

人生の目標を失って


四年間の大学生活を終え、帰省したベンジャミン。優秀な成績と輝かしい賞をひっさげて凱旋したはずなのに、自分の部屋で独りたたずみ「沈黙の音」と向かい合う。冒頭から鳴り響くサイモンとガーファンクルの名曲が、映像にぴったりと寄り添い、メロディーを紡ぎ出す。「やあ暗闇くん。わが親友よ。またぼくと話をしよう」。

暗闇を「親友」と呼ぶことは、孤独を友とするということである。そして孤独と話をするということは、自分自身と向かい合い、自問自答することにほかならない。これは「考える」こと、「思考」が始まったということである。しかし考え出すとますますわからなくなるのが人生である。

ベンジャミンの心の中を知るべくもない両親は、車を買い与え、盛大な卒業パーティを開いたりもする。将来を嘱望されているベンジャミンである。何といっても自慢の息子なのである。しかし肝心の本人はといえば、大学院へ進学するでもなく、就職するでもなく、にわかに心を決めかねている。彼の虚ろな心の中には何かが広がっている。周囲の過大な期待からのプレシャーだとか、今頃になって芽生えた親への反抗心というのでもない。人生に対峙する心に染み込む漠然とした不安なのだろう。

人は大学に進学するという。なぜか。数ある大学の中からどこかを選び、ある専攻に決めたりもする。どうやって選ぶのか。あるいは就職先は、結婚する相手はどうやって決めるのか。こうした人生の岐路にあって、何が決定因子となっているのだろうか。数ある選択肢の中からひとつを選ぶ絶対的な基準というものがあるだろうか。実際はといえば、周りと状況に流され、常識に振り回され、偶然に支配されているのが人生ではないか。

われわれはみずからの人生の主人公として、自分自身の進路を常に自分で決定しているだろうか。大学卒業という当面の目標を失い、人生行路の先が見えなくなった時、それがただの幻想だったとはたと気づくかもしれないのである。誰かによって敷かれた既成のレールをただひた走り、成績や賞という目の前のニンジンを追いかけてきただけだったのだ、と。

ロビンソン夫妻

パーティに出席していたロビンソン氏で、ベンジャミンの幼なじみエレーナの父親はいう。「プラスティックだ」と。人生という大海原を前にして迷える青年に、将来有望な道を指し示す貴重なアドヴァイスだったかもしれない。プラスティック関連の仕事に従事すれば、成功間違いなしだ、といったところである。「何たって、これからはプラスティックの時代だ」。しかしベンジャミンには何のことかわからない。

金儲けと世間的な成功が人生の究極の目的であり、そのために自分の進路を決定するという「常識」が、ベンジャミンにはピンと来ないのである。それほど彼は世慣れていないというだけではない。彼の中にはそうした常識に対する無関心がある。そしてそのことが彼の不安の遠因でもあるのだ。というのも、もしお金を稼ぐことが人生の目的になるのなら、進路はかなり限定されるに違いない。たとえ迷うことはあっても、不安に陥ることにはならないだろう。だがベンジャミンにとって自分の人生を決定するのはそんなものではなかった。では何か。それがわからないところにベンジャミンの不安の根源がある。

逆にいえば、ロビンソン氏の言葉は常識人としての姿を浮き彫りにしている。彼にとっては「何をやりたいか」ではなく、「何が儲かるか」で人生を決定するのが当たり前であり、そこに何の疑問もない。現実主義者ロビンソン氏の実務家ぶりは筋金入りである。「ロマンティックなもの」は彼には無縁なのである。

そして、このことが氏と夫人との間の微妙な溝をも示唆している。というのも、ロビンソン夫人の大学での専攻は「美術」だったが、これこそ実務家からすれば、浮世離れした「ロマンティックなもの」にほかならないからである。二人を結婚へと促したのは、カーセックスの「お土産」というきわめて現実的な事態だったかもしれない。だが時を経て、すでに何年もの間、夫妻は寝室を別にしているという

ベンジャミンの冒険

すぐにドラマを惹き起こすモティーフが映画に投げ込まれる。パーティの途中で、ロビンソン夫人はベンジャミンに家まで送らせる。強引に彼を家まで連れ込み、誘惑するのである。この時はベンジャミンは拒否する。というより、動転し、怯え、はねつけた。だが後日、今度は彼の方から夫人を誘うのである。

人生の既成のコースを終えたところで、ベンジャミンの心で思考がぐるぐる回っていたのだった。彼はロビンソン夫人の驚くべき行動を孤独の中で反芻したに違いない。「幼なじみの母親と不倫するなんて、道徳的にあってはならない」とか、「まあ少しばかり会ってみるのもいいかもしれない」とか「プレイボーイを気取って、楽しんだっていいじゃないか」とか。さらには「今の不安から脱却させてくれるものがセックスにあるかもしれない」などとも考えたかもしれない。

そう、これが考えるということなのである。思考とはいくつかの選択肢を立て、互いに問答し、秤にかけることにほかならない。つまり相対化の作業なのである。そうやって頭の中で思いをめぐらし、優柔不断ぶりを決め込んでいる間に、ベンジャミンはロビンソン夫人の愛欲の罠に落ち、溺れる。

絶対の欠如

だが夫人とのセックスは人生の不安を払いのけるどころではなかった。昼間はプールに浮かび、夜は夫人とのベッドの中。両者を行き来する生活にはけだるさが立ちこめ、ベンジャミンの沈黙の闇はより深まる。人生がいっそう混沌とする中で、逆に、彼の不安の本質が鮮明に見えてくる。

思考は相対化だといったが、「決断」はそこから出はてこない。ベンジャミンが夫人と一線を越えることになった経緯を見てみるとよい。最後の最後まで決断できなかった彼ではあるが、ロビンソン夫人の「初めてなのね」という言葉に奮い立つのだった。これに激怒し、いきり立ったベンジャミン。つまり彼に実行を促したのは、思考ではなかった。屈辱に耐えられなかったからだった。決断をもたらしたのはプライドの痛み、憤怒の感情だったのである。

人生の岐路にあって、われわれを最後に後押ししているものは何だろう。この場合のベンジャミンのような、その場の感情の暴走だろうか。そんなはずはないとしたら、条件をデータ化した数値だろうか。ありえるだろう。われわれはそういう情報で考え、相対化して、事態を理解しようとする。しかし問題が重大化するにつれて、データーから自動的に決定が出てくるのは困難ととならないか。われわれはみずからの心の声に従っていないか。まさにそれが相対性の地獄から抜け出すことなのである。ベンジャミンは感情的にはなっても、自我の心奥からの声は彼に届いていなかった。いや、そもそもなかった。

だから若きベンジャミンの悩みは、究極的には、絶対化を促す何かが欠落していることにある。「何が何でもこれをやりたい」「誰が何といおうと、自分はこれだ」がないのである。セックスはその回答にはならなかった。

映画の主人公たちは、いわば絶対的なものに衝き動かされたキャラクターである。彼らは「ねばならない」行動を迫られる。こうして宿命的な恋に落ち、人生を揺るがすような事件に遭遇し、絶体絶命の危機に陥ったりするのである。本人に内在するか、外部から強制されるかはどうでもいい。絶対的なものによってキャラクターは形成される。これは劇の原理といえるだろう。

ところが『卒業』はそれをひっくり返した。ベンジャミンは映画の主人公にふさわしいものを何ももたない。「絶対」に動かされるどころか、「相対」の波間を漂い、プールの上でひねもす時をすごすだけ。行動を促すものは何もない。確かにロビンソン夫人は、一時的に、彼を強制的に動かす絶対的なものとして機能した。ベンジャミンはそれに翻弄されるのだが、結果として、彼の中の「無」を浮き彫りにするだけだった。思考は相対的だといったが、実際のところは相対でさえない。絶対という基準があって初めて、相対は相対となるのである。絶対がなければ、カオスにすぎない。ベンジャミンの不安の根源はまさにここにある。

こうしてベンジャミンの無為はいっそう空虚さを増す。「劇」は消滅する。だからこそ音楽が決定的な意味をもつ。サイモンとガーファンクルの音楽がなかったら、劇のない場面は映画にさえならなかっただろう。

四月になれば彼女は


ロビンソン夫人との関係がだらだらと続く中で、新しい状況が迫ってくる。サイモンとガーファンクルの「エイプリル・カム・シー・ウィル」が時の経過と、夫人の娘エレーナの帰郷を演出する。

ロビンソン夫人はベンジャミンがエレーナに近づくことを極度に恐れる。彼女にとって娘は最大の「敵」であり、身の破滅の引き金ともなりうるからである。ところが、さすがに息子の生活に苛立ちを覚えていたベンジャミンの親がいう。「エレーナを誘って、デートでもしたら」。

夫人に釘を刺されていたベンジャミン、「大人の世界」を知りすぎていたベンジャミンは、エレーナをぞんざいに扱う。それもひとつの誠意だといわんばかりに。何に対する誠意なのか。夫人に対する忠誠心か。それとも堕落した自分など、エレーナにはふさわしくないというのか。

だが何かが違った。人生は何が起きるかわからない。これまでロビンソン夫人の絶対命令に翻弄されてきたベンジャミンだったが、全く予想だにしないことが起きた。ほかならぬ彼の中で、絶対が唐突に生まれたのである。

彼は不良さながらに、清純なエレーナを場違いなストリップ・バーに連れて行った。自分の居場所を失い、ストリッパーにからかわれたエレーナの目、キャサリン・ロスの愁いを湛えた、しかし情熱的な目に、涙が浮かんだ。その瞳を見た瞬間、ベンジャミンにはすべてが明らかになった。「この女(ひと)だ」。エレーナこそ自分にとっての絶対なのだ、と。

絶対的なものは突然やって来る。そしてそれが人生の意味を明らかにする。こうしてエレーナとの再会の前と後で、ベンジャミンの人格が一変する。今や、ベンジャミンは映画の真の主人公となったのである。

車の中で、二人はうちとけ、ベンジャミンは卒業後の心境を初めて明かす。サイモンとガーファンクルの騒がしい「プレジャー・マシーン」から逃れ、隔絶するように、車のコンパチブルの屋根を閉じると、密やかな空間が生まれる。二人の世界が確立されたことを暗示するかのように。

絶対の横暴

一波乱では済まないのはのは明らかだった。何といっても、母親と不倫関係にあったのだ。ロビンソン夫人は必死になって二人を妨害しようとするが、ベンジャミンは夫人との関係をエレーナに明かしてしまう。当然のことながら、二人の間に越えがたい壁が立ちはだかることになる。

これから起きるエレーナを求めるベンジャミンの狂おしい行動、あるいは勝手きわまりない横暴をどう説明すべきだろうか。 

たとえば妻と不倫され、娘を追いかけ回されて憔悴しきっているロビンソン氏に、「ぼくが欲しいのは娘さんであって、奥さんじゃない」といいきるシーン。さらに「奥さんとの関係は無であり、握手したようなものだ」とさえいってのける。よくもまあぬけぬけと、というか、あっけらかんと「真実」を口にしてしまうのである。

よくいえば一途ということになるが、ロビンソン氏に対する最低限の気づかいさえ、「どうでもいい」のである。このある種の無頓着さは、ベンジャミンの中に棲み着いた絶対的なものからしか説明できない。相対的なものと絶対的なものは並存しない。繰り返しておけば、まず絶対があるからこそ、相対が相対たりうる。つまり絶対は生の原理なのであり、すべての意味と価値がそこから生まれるのである。だとしたら、二次的、三次的なロビンソン夫人との情事など、エレーナを知ってからは何の意味も価値もない。

こうして『卒業』が行き着くのは、キャッチコピー風にいえば「真実の愛」ということになるのだろう。だがこの映画はそれがいいとか、「そうあるべきだ」といっているのでもない。教えを垂れているのでも、道徳を説いているのでもない。ただベンジャミンはそれに衝き動かされているだけなのである。それをただ「純愛」というのもためらわれる。体のいい教科書向きの「愛」などではないのである。ベンジャミンは考えて動いているわけではない。彼を行動へ駆り立てているものは判断停止を促す。絶対的なものは本来的に身勝手で、不合理なのである。だからこの愛は時には常識と道徳を超え、破壊さえもたらすかもしれない。映画のフィナーレのように、である。

一方、エレーナは……

優柔不断で、不安と自信のなさに揺れるあのベンジャミンは消滅した。エレーナに確認もしないのに、「結婚する」と両親に断言するほどである。しかしエレーナは違う。まだ相対の中にとどまっているのである。

無理もない。ベンジャミンは母親を手籠めにするような男なのである(そう教えられていた)。彼がしたことは父親を愚弄し、ロビンソン家を崩壊させさえする。それにエレーナにはつきあってる「まともな」(仲間の友だちによると、本当はそうでもないようだが)男もいる。両親も二人の結婚を祝福してくれている。

エレーナの中には常識というものだってある。ベンジャミンはそれを乗り越えてしまったが、母親の不倫相手と結婚するという非常識の前に、彼女は立ち止まらざるをえないのである。ところがエレーナの中にはベンジャミンに対する愛がまだくすぶっている。彼女は真意を確かめるために、ベンジャミンの部屋におしかけさえした。こうして、かつてのベンジャミンの姿がエレーナに乗り移るかのようである。彼女は優柔不断の化身となる。

別のいい方をすると、「エレーナ前」のベンジャミンのように、彼女の中に「思考」が始まったということなのである。「常識に従うべきか」「ベンジャミンとの愛に従うべきか」、本当に「わからない」。

失楽園


『卒業』の有名なラストシーンは象徴的である。結婚式が執り行われる教会にベンジャミンが駆けつけ、騒動がもちあがる。口汚くののしる自分の親たちと新郎の姿がエレーナの目に入る。次の瞬間、エレーナの心からベンジャミンへの愛がほとばしる。ベンジャミンは十字架を振り回し、それで「鍵」をかけ、みんなを閉じ込めてしまう。「脱出」に成功した二人はバスの最後部席に座り、快哉を叫ぶが、やがて神妙な面持ちで沈黙する。 

この最終場面から「二人は長くはもたないだろう。結局、すべては若気の至りだったのだ」といった類の「批評」をよく聞く。しかし象徴的なサインを見落とすことがなかったら、そんな印象は出てこないはずだ。もともとこの映画では象徴的な方法論が多用されている。最後の逢瀬でけんかし、仲直りしたベンジャミンとロビンソン夫人は極端に離された構図で撮られ、二人の成り行きを暗示しているかのようだ。

無為の象徴のようだったプールはエレーナを知った後は閉じられる。そしてエレーナを求めるベンジャミンの姿を映しだす時、バックに「スカボロー・フェア」が流れる。「真実の愛」=「この世に存在しない愛」を歌う名曲である。

そしてラスト・シーンはどうか。二人が飛び出してきた教会は「神の家」であり、聖なる場所であることはいうまでもない。集ったのは新郎新婦、牧師さんと両親、それに結婚を祝福する参列者たちである。つまり神のもとで承認され、保護され、すべてが「正しく」とり決められた秩序がそこにある。これは何か。神の掟を守ることによって保証されたかの楽園、エデンの園にほかなるまい。そしてそこから追放された男と女こそ、ベンジャミンとエレーナなのである。

創世記におけるアダムとイヴの物語はひとつの寓話としてとらえることができよう。「善悪を知る木の実を食べてはならない」という掟を守ることで成立していた楽園とは、いいつけを遵守することで秩序が保たれている世界を意味する。たとえば親が認めた新郎と結婚するならば、そこは楽園であり続ける。ところがエレーナは最後の瞬間で、楽園の欺瞞を感じとった。そして「いい、悪い」を自分で判断したのである。つまり善悪を知る木の実を食べてしまったのである。掟は破られた。神ならぬ「絶対」を知ってしまったベンジャミンはもとより楽園追放者だが、こうしてエレーナもついに楽園、つまり十字架で封印された教会から外へ踏み出す

これは与えられた価値観をわがものとして何の疑いもなく生きる段階から、みずから判断する生への飛躍を意味する。つまり失楽園の物語は、人間の成長の段階を象徴的に描いており、誰もが体験する普遍的な意味をもつといえよう。

そしてここで『卒業』の意味が明らかとなる。「卒業」とは学校からの卒業などではない。既成の生からの「卒業」、与えられた価値観からの「卒業」、みずからの生への「帰還」を意味する。それが映画『卒業』の「卒業」なのである。

で、楽園を追放されたアダムとイヴはどうだったのか。命令どおりに、定められたルールどおり生きていた間は、多生の不満はあっても、何の責任もなく、お気楽で、まさに楽園だった。しかし自分で判断し出すと、判断そのものが難しいだけではない。すべての決断・行為は自己責任となるのである。楽園を出た以上、すべてをみずからが甘んじなければならない。だから聖書ではこう書かれている。楽園を出ると、そこは「茨の道」だったと。最後のシーンのベンジャミンとエレーナの真剣な面持ちはそれを象徴しているようにしか見えない。