夢とは夢を見続けること―解読『ニュー・シネマ・パラダイス』

イタリアはシチリア島のとある村で、映画文化の黄金期の洗礼を受けた少年がいた。その名はサルヴァトーレ、通称トト。少年の父親は戦場のロシアに向かったまま、帰ってこない。トトが入り浸る映画館には映写機を回すアルフレードがいた。妻と子供を亡くした男やもめだった。映画で結びつき、師と弟子とも、親子ともつかない二人は、お互いを求め合っていた。

映画館は教会の礼拝堂を改造したようだった。だから猥雑と思われたキス・シーンは牧師が鈴を鳴らし、カットされた。どの目も映像に釘付けだった。観客は腹を抱えて笑い、目には涙があふれ、恐怖にこわばり、ふるえた。乳飲み子にお乳を含ませる母親がいた。「映画を観るために病気の妻を置いて来た」と宣言する者がいた。スクリーンを観ながら愛撫するカップルがいた。映画の人物になりきって、台詞を全部口走ってしまう迷惑おじさんもいた。二階席のお高くとまった紳士は下層の一階席へつばを吐いた。映画館は社会の縮図であり、大きな世界への窓となっていた。映画は生活の一部どころか、観ることは生きることだった。

映写室はトトの場所だった。ある時、フィルムを回す自分の生を呪うアルフレードに、トトは聞いた。「じゃ、仕事が嫌いなんだね」。アルフレードは「そうだ」とはいわなかった。「お客が楽しんでいると、楽しくなるよ。お客が笑うとうれしい。自分が笑わせているようで」。できれば映写機を回すのではなく、自分が作った映画でお客を笑わせたかった、というかのように。

ある時、映写室から出火し、教会付属の映画館は全焼した。焼け出されたアルフレードは盲目となってしまった。しかし新たに「ニュー・シネマ・パラダイス」が建てられた。教会から独立した映画館は時代の流れを象徴していた。もはやキス・シーンを警告する鈴は無かった。よりきわどい場面も写された。テレビの出現も宣伝された。2階席からつばを吐いてたお偉いさんには汚物が投げ返された。そしてトトは若者となり、映画館専属の映写係となり、アルフレードの「目」ともなった。

突然の美女エレナの出現。トトは彼女に一目惚れした。しかし「いい人だと思うけど、愛してはいない」といわれた。そこで「好きになってくれるまで、待つ」といった。「映画館での仕事が終わったら、広場のきみの窓の下に立ち続ける」と。何日たったろうか、大晦日の晩にも何の反応もなく、失意のうちに家路をさまようトト。しかし、次の日、映写室にエレナが現れ、二人は激しい恋に落ちた。

エレナの親の反対と戦争が二人を引き離した。兵役から帰ると、故郷にもはや誰もいなかった。アルフレードはいう。「こんなところにいたらだめだ。おまえには前途有望な未来がある。ローマに行くんだ」。田舎に育った人間ならいわれそうな言葉かもしれない。だが、長年のつき合いで、アルフレードには確かな読みがあった。トトには、リールを回すのではなく、客を感動させる映画を作る才能がある。正解だった。ローマに出たトトは映画監督として大成する。

しかし名声を手にし、いろんな女性と「恋」をするも、トトの心の中心にはエレナの存在があった。そんな時、アルフレードの訃報が届いた(実は物語はここから始まったのだった)。故郷に戻ったトト。30年間も封印していた実家の扉のブザーが鳴った時、母の編み物の手が止まった。「トトだわ」。あわてて毛糸をもったままドアにむかうと、糸がどんどんほつれ、せっかく編んだ部分がほどけていく。これは「時間がもとに戻る」アナロジーだろう。時計の針が逆に回る。

しかし、時間は逆行しなかった。何も変わらないようで、すべてが変わっていた。アルフレードの死は映画館の没落の象徴でもあった。

さてここから公開版で省略された部分に入る。葬儀の後、立ち寄った酒場でエレナの面影を見たようだった。グラスが手から滑り落ち、粉々に割れた。実はエレナその人ではなく、彼女の娘だったのである。しかし母親にそっくりだった娘こそが、トトにとっての時間が止まった状態のエレナにほかならなかった。家に帰り、昔、撮ったフィルムのエレナを見返して涙するトト。明らかに生まれ変わりである「娘」との再会が、時間を超越して、かつての出会いを演出している。ついに住まいの邸宅を探し出す。

感動というより以上に切ない二人の再会は、絡まった運命の糸を解きほぐすことになる。あの時、一緒に逃げようと、待ち合わせた映写室では、トトは不在だった。遅く現れたエレナにアルフレードは、二人の将来を思って、別れるよう説得した。しかし、盲人のアルフレードを出し抜いて、帰りぎわにエレナはメモを残した。だがトトがそれを目にすることはなかった。「アルフレードのやつ!」。わかったことは、アルフレードが二人のすれちがいを画策した張本人だったこと。エレナへの絶えざる愛がトトの創作の原動力となったこと。二人にもはや未来は無いことだった。そしてあの感動のラスト・シーン。

映画の最初、映写室の場面でこんなやりとりがあった。キス・シーンのフィルムを欲しいというトトにアルフレードが「おまえにやるけど、おれが預かる」などと意味不明のことをいう。もう誰も憶えていないはず。ところでアルフレードが、死後、トトに託した唯一のものがあった。それは1本のフィルム。映画監督トトはそれを上映させた。驚いた。かつて切りとられたキス・シーンのオン・パレードである! いぶかしげに見ていたトトは、やがて驚き、笑い出し、納得し、目に涙が光り、感動に浸る。

待つ女

完全版DVDではトルナトーレ監督はさまざまな言葉を残しているが、撮影の裏話ばかりで、物語の解釈に役立つようなコメントは少ない。その中で貴重なのは、トトのお母さんは「待つ女」だという指摘である。あの時代のイタリア女性の典型であり、愛すべき母親像だという。彼女は戦死した夫を待ち続け、次には帰って来ない息子トトを待ち続ける。すべてわかっているのだが、受け入れている。運命に翻弄されながらも、強い芯を貫く。まさに忍従の人なのである。監督はこうもいう。「待つことに生を消費してしまい、人生を空っぽにしてしまうんだ」と。


トトと再会した後、初めて会話らしい会話ができた場面がある。トト「子供の頃、自分のことで一杯で、お母さんが若く、きれいなのに気づかなかった。別の人生もあったろうに」。母「再婚せずに、お父さんを思い続けたの。わたしはおまえに似てる。よいことかどうかわからないけど、真心を尽くすのは苦しい」。

心から愛する声を聞いていない

トトに電話すると、いつも違う女の人が出る、と母はいう。でも「心から愛する女(ひと)の声を聞いたことがない」とも。たとえ電話越しでも「愛のこもった声」「心から出た声」が母親にはわかる。だからすぐ察することができる。トトの心にはまだエレナが住んでいることを。帰郷したトトと母親のぎこちない会話の根底にあるのはこの事実なのである。


エレナの娘に遭い、昔の映像に見入るトトをドア越しに見る母。その哀切な表情にあるのは、すべてを理解し、すべてを受け入れ、すべてに耐える慈の心である。


それにしても声は「心の状態」を直接伝える。顔でだませても、声はだませないかもしれない。声の色は心の色なのである。

「王女と兵士の話」―トトの解釈

トトがエレナの窓辺に立ち尽くしたのには、裏話があった。「王女と兵士の話」である。ちょっと前に、アルフレードはトトにこんな話をした。

昔、ある王様が宴を開き、国中の美しい女性が集まった。
護衛の兵士は王女のあまりの美しさに恋に落ちた。
兵士は身分の違いを超え、意を決して、いった。
「貴女なしでは生きていけない」。

王女は兵士の深い思いに感銘を受けて、いった。
「100日間、昼も夜も、
わたしのバルコニーの下で待っていてくれたら
あなたのものになります」。

兵士はバルコニーの下に飛んで行った。
2日、10日、20日がたった。
毎晩、王女は窓から見たが、兵士は動かない。
雨の日も風の日も、雪が降っても、何があっても
兵士は動かなかった。

90日がすぎた頃には、兵士はひからびていた。
眼から滴り落ちた涙を押さえる力もなかった。
眠る気力すらなかった。王女はずっと見守っていた。
99日目の夜、兵士は立ちあがった。
そして椅子を持って、去ってしまった。

さりげないこの小話が、『ニュー・シネマ・パラダイス』の核心なのかもしれない。アルフレードは「意味はわからない」という。しかし、エレナを失うという苦い経験の後、トトはわかった気がした。

「あと一晩で王女は兵士のものになるはずだった、でも王女が約束を破ったら、絶望しかない。兵士は死ぬだろう。でも99日でやめれば、王女は自分を待ってたと思い続けられる」。兵士が去った理由は絶望のため。王女が「待っていないかもしれない」という疑惑が絶望を呼び起こした。しかし、もし王女が待っていたのなら、ずっとそうさせておくことになる。トトは、気づかなかったろうが、そうすることで王女を自分の母親の「待つ女」にしてしまうことになる。「それは人生を空っぽにする」(トルナトーレ監督)。2つの可能性がある。王女が待っていたなら、彼女を裏切ることになる。待っていなかったら、待ってくれていたという幻想を生きることになる。


王女は約束したのだった。そして、現実では、かつてエレナはあの「立ち続け」を通して、愛に目覚めてくれたのだった。それなのに王女を信じられず、99日で立ち去ったというのは、この時、エレナに抱いていた負の感情からの解釈ではあるまいか。ちなみにこの部分は公開版からはカットされた。

「王女と兵士の話」―再解釈


むしろ「王女と兵士の話」はこう解釈すべきではないか。兵士はバルコニーに立ち尽くす間、ずっと王女を夢見ていた。王女と一緒になることを夢見ていた。いや、この夢こそが兵士にとっての「自分」であり「存在」となった。もし王女が自分のものとなり、夢が実現したら、夢を見る必要は無くなり、霧散するだろう。あと一日で夢が叶うというその日に、兵士は気づいた。夢が消滅することは、自分が瓦解し、無と化すこと。それはぞっとするような恐怖以上のもの。人は絶望で死ぬかもしれないが、夢を失うことで自分でなくなる、すなわち心が死ぬかもしれない。

しかし、実現を断念することで、一生、夢を生きることができる。自分自身でいることができる。なぜなら夢とは夢であり続けることだから。どんなに素晴らしくとも、実現したら夢は終わる。夢であり続けるなら、王女の愛はわたしのなかで永遠となる。

99日目で兵士が去ったのは、絶望のためではなく、夢のためではなかったか。

実現できなかった夢は 映画の中で実現される。再会のシーンでエレナはいう。「あなたの映画を全部観てるの。わたしたちが一緒になったら、あの映画はできなかった」。エレナは「待つ女」にはならなかった。

現実のほろ苦さ

夢を「目標」と置き換えてもいいかもしれない。目標は達成されたらむしろ目標では無い。しかし、重要なのは、目標の達成それ自体もさることながら、目標に至るプロセスなのではないか。目標は達成されたら更新されるのだろう。そしたらまた新たなプロセスが始まる。目標はひとつの通過点にすぎないが、生のプロセスを決定するのである。あの兵士の場合、女王の愛はみずからの人生の最終目標となってしまった。だからそれを死と同一化することで、生を成立させたのである。しかし、常に更新されない目標は、おそらくは、劣化を免れないのだろう。

現実は厳しい。エレナの娘との遭遇は光り輝いていた過去の再現だった。しかしエレナの邸宅を発見した時、現実に目覚めた。エレナの夫は幼なじみのボッチャだった。ボッチャ。小学校で九九が答えられず、5×5(=25)を「クリスマス」といったお調子者。エレナの落とし物をとりに、トトと駆け出したこともあった。悪いやつではなかった。隣町にフィルムを運ぶのに大車輪で自転車を飛ばしたが、途中で投げ出し、茂みで女とよろしくやっていたこともあった(完全版のみ)。そのボッチャがエレナと結婚していたとは……。これが現実だ。彼女は自分にそっくりな娘を産んだ。そしてトトは映画を生んだ。

最後のキス・シーン集

最終シーンは圧倒的だ。なぜかわからず、感動してしまう。これまでカットされたキス・シーンがつなぎ合わされ、トトが観ているスクリーン上で氾濫するのである。いろんな解釈があるだろう。いや、解釈など要らないという向きもあるだろう。ただかつて「おまえにやる」といったアルフレードのトトとの約束があったことが想い起こされる。その最後の履行なのは確かだろう。それはまた遺言のようでもある。そして映画を生きたアルフレードその人の深層のようでもある。

思えば、アルフレードは、熊のような図体の無骨な男だった。映画館を追い出された観衆に、外の壁に映画を映して観せた人情家だった。小学校の卒業もままならない無教育な人生哲学者だった。トトとエレナを引き離した一徹な頑固者だった。でも彼の根底にあったのは愛ではなかったか。映画への愛、トトへの愛、人生への愛。アルフレードのもっとも深いところで燃えていたものが、生前あらわになったとは思えない。しかし、最後に、まさに映画という形で吹き出したのではなかったか。