きみは独りじゃない―ビートルズ「ヘイ・ジュード」

「ヘイ・ジュード」をはじめて聴いたのは深夜放送だった。「本邦初オン・エア」という触れ込みだった。当時、ビートルズの新譜の発表は一大事件だったのはいうまでもない。全身を耳をにして、胸をわくわく・どきどきさせて聴いた。ただ印象はよく憶えていない。とにかく長い曲だと思った。シングル盤(「ドーナツ盤」ともいった)を買った。曲についての情報をだんだん知るようになった。

たとえば曲はジョンと先妻のシンシアとの間に生まれたジュリアンのために書かれたとか。二人が離婚するにあたって、ポールは当時5歳のジュリアンを元気づけようと作曲を思い立った。ただし「ヘイ・ジュールズ Jules(ポールはジュリアンをそう呼んでいた)」では歌いにくい。そこでメロディに乗りやすい「ヘイ・ジュード」になったというのである。歌詞はこんな感じで訳してみた。

ねえ ジュード くよくよしないで
悲しい歌でもうたってごらん 気分がよくなるから
彼女はきみの心のひと それを忘れないで
そうすれば きっとよくなる

ねえ ジュード 恐れないで
行って 彼女を抱きしめるんだ そのためにきみは生まれた
彼女がきみに夢中になる その時から
すべてがうまく回り始める

つらい時はいつでも ねえ ジュード じっと我慢だ
独りで世界を背負ったりしないで
だって わかるだろ 少しばかりよそよそしく見せかけて
クールに振る舞うのは愚かだということ
  ナ・ナ・ナ・ナー・ナー・ナ・ナ・ナー・ナー

ヘイ ジュード がっかりさせるなよ
彼女を見つけたんだ さあ 行って 抱きしめるんだ
彼女はきみの心のひと それを忘れないで
そうすれば きっとよくなる

外に向かって 内に向かって さあ ジュード 始めるんだ
きみは人生の共演者を待っている
やらなくてどうするんだ さあ ジュード きみがやるんだ
やるべきことは きみにかかっている
  ナ・ナ・ナ・ナー・ナー・ナ・ナ・ナー・ナー

ポールは「やるべきことは きみにかかっている The movement you need is on your shoulders」のラインにみずから難色を示していたが、ジョンは「最高じゃないか」と評価したとか。

歌詞は難しくない。彼女への愛の告白に怖じ気づく、ジュードを鼓舞する内容ととれる(さまざまな穿った、あるいは穿ちすぎた解釈には深入りしない)。離婚の危機にあって、打ちひしがれる少年への励ましの歌は、明らかに、いっそう一般的な状況に置き換えられる。かくして「愛の告白」は「人生への歩み出し」に広げられ、これから未知の世界へ乗り出そうとする者を後押しする歌にまで拡大される。いわば「人生の応援歌」の嚆矢となるのである。

問題は音楽である。曲は、珍しく、前半と後半の二部構成となっている。前半はポップスの典型ともいえ、1番、2番……と歌詞が変わるヴァース verse、それにサビ middle からなり、全体は v1v2m1v3m2v1 となる(数字は歌詞)。普通は変わらないサビの歌詞が2回目で変化するなど、細かな工夫がある。しかし、形式的にはきわめてありきたりで、サビでサブドミナントに行くのも常套的である。ハーモニーも特筆すべき点はないが、サビで下行するクリシェ的なバスがいい味を出している。要するに西洋音楽的なハーモニーにポップスのスパイスを効かせた、といったところか。

特に特徴がない音楽は、美しくも力強い旋律の歌詞にものをいわせる。こうして「くじけるな」「歩み出せ」「行動を起こせ」というメッセージが、音楽の力を借りたアドヴァイスとなるのである。

ところが、最後のヴァースで音楽は大きく盛り上がり、長大な後半部、あるいはコーダになだれ込む。歌詞はない。「ナーナーナー・ナナナーナー・ナナナーナー、ヘイ、ジュード」という4小節が合唱で際限なく繰り返されるのである。

二部からなり、後半が延々と続くリフレインという構成は、ポピュラー音楽ではきわめて異例といわざるをえない(サイモンとガーファンクルの1969年の『ボクサー』はその影響だろう)。とはいえ、特異ともいえる後半は、陳腐ともいえる前半と結合することによって、お互いを補完し、全体をきわめて斬新とした。しかし、確かに希ではあるが、民族音楽、特にアフリカ音楽では、決して珍しくはないのかもしれない。次の例は西アフリカはガーナの「アハンタ・チャントⅠ」である。

曲は前半と後半からなり、最初からコール・アンド・リスポンスの掛け合いが聴かれるが、後半は短いフレーズの熱烈な反復となる。「ヘイ・ジュード」と酷似している。ポール・マッカートニーはこれを聴いたのではないか、と思わせるくらいである。

手持ちのCDの解説にはこうある。

反復する合唱のフレーズの音域や和声を見つけているうちに、全員がひとつに集中して高まっていく。この祭りの目的は、このような内的昇華状態を生むことにあるといえる。(中略、歌詞は以下のとおり)。

わたしは十字架上のキリストの前に立つ
とても厳粛な気持ちだが
涙が頬を伝って流れる
ピーターもマルタもここにいる
彼らも目に涙を浮かべている
[合唱]聖マリアはアダムの孫

このような例がアフリカではどの程度一般的か、またビートルズがそれを知っていたかどうか、精査が必要だろう。しかし音楽的効果の同一性は疑いようがない。

「アハンタ・チャント(聖歌)」は宗教音楽であり、その目的は会衆の心をひとつに溶け込ませることにある。言葉、ロゴスは要らない。魂から発する声があればいい。集団が声を合わせ、無限ループの渦が発生すると、すべてが呑み込まれていく。その時、音楽の魔力が解き放たれる。自我は溶解し、一種のトランス状態の中で「合一」の感覚が生じる。対立は消える。「われわれはともにある」。言葉を超えた強い一体感で結びつくのである。

「ヘイ・ジュード」の効果も別ではない。後半のリフレインが惹き起こすのはまさに「ともにある」感覚である。合唱の反復フレーズの間でシャウトするポールは、まるで黒人教会の牧師のようだ。そもそもここでフィーチャーされているピアノはゴスペルの楽器なのである。前半の西洋音楽から入った音楽は、後半でアフリカ音楽に行き着いた。コーダのコード進行に注目である。西洋音楽的な強進行は避けられ、黒人好みの弱進行そのものである*。アフリカとの接点として、ビートルズが出会ったのは黒人教会だったのかもしれない。だから「ヘイ・ジュード」はコンサートをミサと化すロックのアンセムなのであり、音楽の原点のひとつを垣間見せる。そして、すべての人々の心を強い絆で結びつけるという宗教的な原点にも到達するのである。

*強進行とはドミナントⅤ→Ⅰに代表される5度下への解決感の強い進行。弱進行は強進行以外のゆるい進行であり、黒人音楽では特にドミナントⅤ→サブドミナントⅣが好まれた。ちなみにこれは西洋音楽では禁則である。

少なくとも、ビートルズが最初期から目指していた、西洋と非西洋の合体の究極の形がここにある。前半はロゴスの力で「みずからの道を切り開くんだ」と歌う。そして後半は音楽の力で「きみは独りじゃない」ことを体感させるのである。そして両者はひとつに結びつき、人生を歩むすべての人への応援歌となる。

昔「ヘイ・ジュード」を演奏するビートルズの姿がTVで放映されるという奇跡?が起きた。ところがそれがちょうど高校での授業の第1日目とぶつかった。迷わなかった。TVを観たのである。見終わって、感動と焦燥を胸に、自転車を駆った。1時間ほど遅刻して、教室に入った。自分の机だけが空席で、周りの奇異の目が痛かった。

そんな話を大学のかつての同僚に話したら「そのファイルあるよ。DVDに焼いてあげるよ」といわれた。喜び勇んで、家に帰って、観た(上の映像だろう)。懐かしいという感慨はなかった。昔を思い出すことなどいっさいなかった。あったのは時間を超えた感動だった。後半、人種も、性も、年齢もない交ぜにして「ナー・ナナ」の大合唱がループする。明らかに「ともにある」ことの素晴らしさを謳い上げているではないか。1968年でこんなこんなことをやっていたんだ! 何十年もたった今、われわれがもっとも必要としているメッセージではないか。