ブルースの精神よりの音楽の誕生―ビートルズ「ドライヴ・マイ・カー」

1965年12月に発表された『ラバー・ソウル』は圧倒的だった。今でもビートルズのベスト・アルバムに選ぶ人も少なくないはず。日本ではアルバムから「ひとりぼっちのあいつ(ノーウエア・マン)」がシングル・カットされ、「ミッシェル」と「ガール」などもEP(コンパクト盤)で発売された。アルバムが買えないティーンエイジャーにとっては福音だった。わたしももっていた。何度聴いたことか。

これらの曲はどれもヒット・チャートの最上位を賑わした。巷にはビートルズの新しいサウンドが氾濫していた。ビートルズの人気と支配は絶大だった。

『ラバー・ソウル』の新しさを一言でいえば、メロティー志向をより強く打ち出し、それにともなうサウンドの変化が生じたことにあるといえよう。歌詞の内容が恋愛一辺倒から生活へ向けられたことも重要である。こうした新たな方向性とともに、従来のビートルズ的なものも継承されていた。その意味で『ラバー・ソウル』は創作の軌跡における曲がり角に位置づけられるだろう。

正直いって、当時のわたしにとっては、「ミッシェル」や「ガール」などは、ややポップで「やわく」感じられた。しかしこれまでのスタイルを引き継ぎ、しかも創造的で、カッコいい曲があった。コンパクト盤にもあった「ドライヴ・マイ・カー」である。

ブルースのスパイスがたっぷり

「ドライヴ・マイ・カー」は『ラバー・ソウル』の1曲目に置かれていた。ギターの歪んだ音がアルバムをこじ開けることになる。ブルー・ノートの激しい浸食を受け、音は記譜不可能なくらいに変位している。このフラット感に、激しい音のぶつかり、シャウトぎみの黒人っぽいヴォーカル、耳ざわりなコーラスなど、明らかにブルース、あるいはリズム・アンド・ブルースのビートルズ版だった。

しかしブルースそのものではない。常套的な12小節のブルース形式は退けられている。これはデビュー以来のビートルズの路線であり、意識的な「とり決め」でもあったようだ。7thの多用、サブドミンナントへのこだわりもブルースっぽいが、ブルースの「キメ」となるドミナント→サブドミナントの進行はない。

しかしリフレインの最後に出るE7→A7→D7→G7(in D)はいわゆる「床屋の和声 barbershop harmony」*であり、黒人音楽の表徴ともいえるスタイルである。ちなみにこの和声法は「グッドデイ・サンシャイン」「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」から「ハニー・パイ」にまで受け継がれる。これらの曲がヴォードヴィル・バンド風といわれるのは、1920年代のミュージック・ホールにおける黒人音楽を想わせるからである。

*バーバーショップ・ハーモニーは奴隷から解放され、床屋の順番待ちでたむろした黒人たちが、即興的に合唱したスタイルだったという。ヴォイシングを調整すれば、7thの和音が半音階的にスライド・下行する。

つまり生のブルースではないが、深く黒人音楽的なものを汲み上げたサウンドなのである。

ブルース形式を退けたのは、12小節を繰り返すだけではあまりにも変化に乏しいからである。そのため「ドライヴマイ・カー」では1番、2番、3番のヴァースにリフレインを加えた。これも最初期からのビートルズの戦略だった。「ドライヴ・マイ・カー」が過去向きであるというゆえんである。ただし古さは新しさでもあった。

そこで何が歌われたのか。

あたしの車、運転していいわよ

ヴァースの歌詞内容は変わり、リフレインは変わらない。「ドライヴ・マイ・カー」の場合、リフレインの歌詞は「ベイビー あたしの車 運転していいわよ/そう あたし 映画スターになるの/ベイビー あたしの車 運転していいわよ/そしたら 愛してあげるかも」というもの。脳天気な歌詞のようだが、この不変のものがヴァースの変化するものと絡み、ねじれる。思いがけない展開。詩人がよくやる手だ。

第1ヴァースはこうなる。

あの娘に聞いたんだ 「何になりたい?」
彼女がいうには 「ベイビー わかるでしょ
あたし有名な銀幕のスターになりたいの
でもその前に いいことしない?」

そしてリフレインである。ところで、ここまで来て……かどうかわからないが、途中でジョン・レノンは設定を換えたという。つまり、最初は女性が男に尋ねるという設定だった。しかし、逆にした。こうして上のようになった。「ベイビー」は男である。2番のヴァース。

ぼくは応えて 「こっちだって先行き順調だ」
彼女いわく「わかってるわ
コツコツ働くのも 大いに結構
でも 楽しいこともなきゃね」

リフレイン「わたしの車 運転していいわよ」……。そして第3ヴァース。

じゃあ さっそく運転しようか とぼく
彼女「ねえ いっておかなきゃならないことがあるの
車はないの がっかりね
でも運転手は見つけたわ さあ始めましょ」

何のことはない。車はなかった? 最後にどんでん返しである。リフレインがまた戻ってきて「あたしの車 運転していいわよ」。車がないのに、ドライヴだって? 何が何だか。

ブルース的暗喩

「ドライヴ・マイ・カー」の詩を解読するには、サウンドがそうであるように、ブルース的世界に通じる必要がある。

たとえば1920年代に「ブルースの女帝」といわれたベッシー・スミスに「あんたはいい馬車だったのに You’ve Been A good Ole Wagon」(1925年録音)という歌がある。

「あんた」が「馬車」?よくわからないが、4番まである歌詞の1番では、次のように歌われる。「さあ、わたしの前から消えて。今夜でお別れよ。あんたの時代は終わった。前はよかったけど、もう壊れた馬車なの」。 

2番ではもっと意味深なことをいう。「修理屋で直してもらいな。あんたにはいい女を落とせるものはない。本物の男がいるのに、誰も(あんたの)子供を欲しがったりしない。前はよかったのに……」。彼女は新しい男を見つけたんだろう。最後のヴァースはとどめを刺す。「この男はあんたにはとうていわからない愛を知っているわ。愛の帝王よ。彼はいい馬車なの」。

ようやく見えてきた。曲は男に愛想を尽かした女の捨て台詞のようだ。明らかに、男とうまくいかなくなった問題は「愛」にある。しかし、この愛はほとんど「セックス」に置き換えられる。だから馬車がもち出される。「馬車に乗る」が何を意味するかはいうまでもない。性的に役立たずのあんたは壊れた馬車。だから出てってというわけ。

しかし性が人間の本質であることに変わりはない。ミュージカルを温床として育んできたアメリカの白人音楽は理想の世界を歌った。永遠の愛、花が咲き乱れるパラダイス、星が燦然と輝く夜空、それが定番だった。美しい、素晴らしい。しかし何かきれい事に終始していないか。黒人音楽はその逆を行く。目を背けたくなるような現実を歌うのである。美しくはないかもしれない。しかし真実の世界である。

そのための手段が暗喩、メタファーだった。「あんたは壊れた馬車」という。そして馬車に込められた意味、いわば暗号がわかっている人には、いわんとすることは明白である。ここでダブル・ミーニング的な構造が生まれる。

ブルースは暗喩によって真実をえぐり出したのである。

だから、新しいロッキング・チェアを担いで出て行く男を呪う「ロッキング・チェア・ブルース」は、ただの椅子を歌う曲ではないことがわかる。ロバート・ジョンソンの「蓄音機ブルース」も同様である。

ブルースの精神のよみがえり

暗号の意味を知っていれば、暗喩的表現の意味するところはすぐに解ける。

「ドライヴ・マイ・カー」の場合、第2ヴァースまでは「車を運転する」「ドライヴする」ということで話は進んでいた。しかし第3ヴァースで「車はない」という事実が発覚すると、状況は一転する。そして「ドライヴ・マイ・カー」の意味が一挙にブルース的世界の色合いを帯びるのである。

「ドライブ」が何のことか、「マイ・カー」の意味は明白である。この構図は女性が主人公である方がはっきりする。逆にいえば、ジョン・レノンが設定を換えたのは、ブルース的暗喩をもち込むためだった。ビートルズはブルースの通だったのである。

わかる人にはわかる。ただの車の曲じゃない。「ドライヴ・マイ・カー」はブルースの精神のよみがえりだった。