モ-ツァルト短調作品の心臓部を「読む」1―K.183、K.304、K.310の場合

モーツァルトの曲はどれも似たり寄ったりだといわれることがあるかもしれない。まあ生み出される音楽が作者の刻印を受けるのは当然だろう。モーツァルトの顔がどっちを向いても変わらないのと同じようなものだ

とはいえ、たとえば形式にしても、みんな同じパターンじゃないか、といわれたら、それは違う。モーツァルトは形式をただの鋳型として、機械的にとらえていなかった。むしろある約束事が決められているがゆえの多彩な工夫、無尽蔵の創意を盛り込んだのである。モーツァルトの個性でもある。

楽譜を見れば、よくわかる。「みんな同じ」というのは「読み」が甘い。

楽譜を読むとは、音符の高さや長さがわかることだけではない。だが「読む」ということ自体がよくわからないだろう。残念ながら、音楽学に居ながらも、専門的に教わったことがない。

だから、それを具体的に実行してみようではないか。モーツァルトを例に。そうすれば、天才が音楽でどんなことをやっていたかが「読める」、あるいは「わかる」だろう。

ちょっとした前置き―短調のソナタ形式について

ここでポイントを絞っておこう。たとえばモーツァルトの音楽の眼目、いわば心臓部ともいえるところはどこか。それを知るには少しばかりの前提が必要となる。

多分お馴染みであろう「ソナタ形式」についてである。下に簡単にまとめておくが、たとえば長調の楽曲だったら、ハ長調を例にすると、下図上のようになる。主題とその調性に注目である。

ハ長調の第1主題で始まった音楽は、第2主題で属調(♯×1、5度上)方向へ向かう。これは高揚であり、緊張だが、次の展開部では転調を重ねて、緊張は紛糾にまで高まる。この劇的な葛藤を解決・鎮圧するのが第1主題の再現である。あとはハ長調に戻った第2主題が決着を完遂する。

以上が長調のソナタ形式のおさらいである。緊張と解決、決裂と和解という劇的な形式なのである。だが短調の場合はちょっと違う。♭×3のハ短調を例に確認しておこう(図下)。

提示部では音楽はシャープ(あるいはナチュラル)方向へ進まない。平行長調へ向かうのである。これは短調での開始からの自然な進行といえる。なぜならハ短調は♭3の調だが、短調のハーモニーでは、BはHへと変位させる。つまり調号どおりではなく、臨時記号でB(時にはAsも)を半音上げなければならないのである。

ところが変ホ長調はまさに安定した♭3の長調である。だからもともと長調に手を加えて造りあげられた短調が、調号どおりの調へ向かったともいえる。「自然な進行」と呼ぶゆえんである。

こうしてソナタ形式のドラマティックな緊張を惹き起こすのは、短調の場合、もっぱら展開部ということになる。そして、いうまでもなく、解決は第1主題の再現の瞬間であるはずだ。ところがここでまた問題が起こる。

第1主題は、当然、主調、上の例ではハ短調となるが、短調での解決は悲劇以外の何ものでもない。しかし劇的な原理における解決とは「和解」にほかならなかった。つまりハッピー・エンドとなるはずである。少なくともそれが古典的な劇作法だった。

そこで、緊張の糸を解く機能を完全に果たすのが、第2主題の再現となる。ただし短調ではなく、調号の♭3をすべて無効化した長調、この場合、ハ長調となる。ハ短調に対して完全な解決となる同主長調(同じ主音の長調であるハ長調)である。

これが一般的な短調のソナタ形式である。

ところがモーツァルトはそうしなかった。え! あの模範的で、形式美を誇る古典派の代表格のモーツアルトが? そうなのである。彼は短調のソナタ形式では第2主題を主調=短調で再現させた。生涯にわたって、一貫してである。悲劇は悲劇で終わるというのである。伝統も因襲も無視したやり方というしかない*。

*ちなみにハイドンとベートヴェンの場合は、第2主題の再現は、時期やジャンル、それに作品で異なった処理が見られる。だが基本は上記の一般的な短調のソナタ形式の図式「同主長調での再現」にある。

個人様式ともいえるこの第2主題の再現をどう演出するか、ここにまさにモーツァルト的なもののひとつがある。

規則の中の自由―「小ト短調」の回答

一般的に、音楽作品は安定した楽想の領域とそれらを繋ぐ不安定な部分で構成される。前者を主題、後者を推移部といったりもする。天から降りてきたような楽想は作曲者のひらめきの所産というしかなく、もって生まれた資質の賜といえる。しかし繋ぎの部分は、ある種、技術的な側面があり、作者の音楽的思考がものをいう。

たとえば第1主題から第2主題へ音楽を繋ぐ部分である。そこでは作曲者の意志が色濃く反映しているはずである。それというのも、橋渡しという機能はあるが、その方法論はさまざまだからである。

具体的に見てみよう。対象となるのは、モーツァルトの短調作品のソナタ形式による第1楽章である。再現部での第1主題提示後から第2主題の再現の直前までの、いわゆる推移部である。年代順にいくことにしよう。まず「小ト短調」交響曲K.183(1773年)から始めよう。

譜例の冒頭、突然、ヴァイオリンとオーボエに4小節のフレーズが現れる。その後半の特徴的なリズム音型(すでに最初からバスに出ている)が連続的に反復される。いわゆる「しりとり的に」フレーズを引き延ばしていくやり方は、いかにも推移部的である。

ハーモニーが特に動き出すのは、下に小さく和音記号を付したところからである。[Ⅰ-Ⅳ]という4度上進行のパターンが、2度下がりながら、[Ⅶ-Ⅲ][Ⅵ-Ⅱ][Ⅴ-Ⅰ]と進行する。ト短調の音階上の7つの和音をめぐり、最後にⅠに戻っている。

これは典型的なゼクエンツ[独: ゼクヴェンツ Sequenz、日本語では「反復進行」などともいう]であり、バロックでフレーズを紡ぎ出す時の常套手段である。

ゼクエンツは滑るようになめらかな流動性に特徴がある。推移的な部分の典型的な進行といえる。またⅦやⅢといった、カデンツでは使わない和音も現れる。これらは短調では長三和音であるため、色彩的でもある。

つまり、フレーズの連続的な反復に加え、第2主題へ向けての「動き」をハーモニーが演出しているのである。実は、二つの主題が同じ調であるなら、再現部では両主題を繋ぐという推移部本来の機能は、消滅している。

こうして、いったんト短調に戻って(第170小節)、Ⅳに向かうと見せかけて、同じ和声パターンを反復して(譜例 青下線)ドミナントⅤへ行き着く。今や第2主題の出現が完璧に準備される。再現部から聴いてみよう(マリナー指揮/セント・マーティン・イン・ザ・フィールドの演奏)。

なお強烈なインパクトをもつ第1主題に対して、第2主題にきわだった特徴や魅力は乏しいといわざるをえない。

調性音楽最強の和音?

ところで、推移部は最終的に主調のドミナントⅤに到達する。第2主題がトニックⅠで登場する足場を築くのである。つまりドミナントは推移部を締める重要な和音なのだが、それを確立・確定させる決定的な和音が存在する。ドッペルドミナント[独: doppeldominant]である。

ドッペルドミナントは「Ⅴ度Ⅴ度の和音」といわれたりもする。カデンツの中核をなすのは、お馴染みのⅤ→Ⅰ(「礼→着席」)の進行だが、このⅤを強力に誘導する和音が存在するのである*。つまり、ドッペルドミナントをV/Ⅴと記すと、Ⅴ/Ⅴ→Ⅴという進行が定番となる。このⅤが第2主題を待ち受ける。

*煩雑になるので、深入りしないが、知っておきたい人のために一言。Ⅴ→Ⅰをハ長調のコード・ネイムでG→Cとすると、ト長調のⅤ→ⅠはD→Gとなる。つまりDはGへ解決する。そこで全体をハ長調に置き換えると、D→G→Cとなり、強力なカデンツが続く。Dはレ・ファ♯・ラの和音で、ハ長調にはないファ♯含まれる、これはⅤ度上のト長調の第七音である。だからDはハ長調からはⅤ度上(ト長調)のⅤ度と呼ばれる。D→G→Cはハ長調でⅤ/Ⅴ→Ⅴ→Ⅰとなる。よけい煩雑かな?

調性音楽を決定づけるのはⅤ→Ⅰの進行だが、Ⅰをトニックたらしめるのは、実は、ドミナントⅤなのである。ドミナントこそが古典和声体系の核心なのである。しかしこの核心を決定づける和音があるとすれば、それが調性音楽における最強の和音となるだろう。ドッペルドミナントである。

そのドッペルドミナントは推移部では必ず用いられるといっていい。不安定な調的彷徨いに終止符を打ち、ドミナントへ音楽を収束させる決定的な和音がドッペルドミナントだからである。

ドッペルドミナントにはさまざまな種類があるが、ここでは機能を重視して、一括してDとDを重ねて記しておこう。ドミナントはDである。譜例では赤で示す(譜例上)。

第2主題への接近―ヴァイオリン・ソナタホ短調

ソナタ形式は基本的にシンメトリー構造となる。提示部をA、展開部をBとすると、ABA’となる。再現部は提示部を繰り返すことになるが、第2主題の調性が異なるため、A’となる。

特に推移部は提示部と再現部で必然的な変化を伴うが、調性の扱いのみならず、再現でのみちょっとした工夫が加えられることもある。そこにさまざまな作曲家のセンスとアイディアが発揮される。これも楽譜を「読む」面白さである。

ただしト短調交響曲の場合はきわめて基本的で、提示部で唐突に平行調(変ロ長調)へ転換した推移部を、再現部ではト短調のままで使用した。つまり調性だけを変えたのだった。結果として再現部はト短調一色となる。

まとめると、モーツァルトの短調作品での再現部における推移部の特徴は、1)調的な繋ぎのとしての機能はない。2)第2主題の調性は提示部と必然的に異なるため、何らかの変化が必要となる。3)その変化にはさまざまな可能性がある。 

以上の前提のもとで、次の作品を見てみよう。ホ短調ヴァオリン・ソナタK.304である。演奏はやはり再現部から。グリューミオ/ハスキルの古典的な名演で。

楽想としては基本的に提示部と同じなのだが、調の扱いはもちろん違う。まずヘ長調へ揺れて、ハ長調へ行く。前の部分のホ短調からハ長調への3度転調は光を感じさせる。しかしイ短調へ向かうと見せかけて、すぐにホ短調のドミナントへとすり抜ける。

楽譜から音楽の「感じ」はよく見える。一瞬、短調から柔らかい長調へ逃れ出るかと思いきや、まさにそれを足掛かりとして、たちまちホ短調へ戻るのである。ほのかな光を感じた目には闇はいっそう暗いだろう。

ここでやはりドッペルドミナントがものをいう。ホ短調のドミナントをがっちり確立し、あとはドミナント状態が続く。ホ短調からは決して逃れられない。こうして第2主題の到来を待機する。

特徴的なのは、束の間のハ長調への方向転換のようだったが、楽想的にはそこで第2主題の要素を先どりしていることである。第130小節の付点リズムの音型である(譜例赤で示す)。このリズム音型は、最初の二回は長調だが、138小節目からは短調に変わる。つまり、推移部はまず楽想的(リズム音型)に、次に調的(ホ短調)と、第2主題へと段階的に接近しているのある。

それにしても、リズミックで陽気にさえ見える音型ではある。だが短調こそが本来の姿だったのか。何かぞっとするものがないか。

ホ短調ヴァイオリン・ソナタの推移部の再現における調的な揺れ、および第2主題の予感を徐々に高めさせるような「接近」の工夫は小ト短調にはなかった。

運命は厳粛に

続く短調作品はイ短調のピアノ・ソナタK.310である。ここではヴァイオリン・ソナタに見えた長調へ向かう素振りはまったくない。ただし書法には変化がある。不意に左手にフォルテで第1主題が侵入してくるのである。調は不動のイ短調、衝撃的ともいえるダメ押しである。

ゼクエンツにカデンツの要素、それに半音階的な進行も織り混ぜ、調は揺れるようだが、行き着くところは決まっている。またしてもドッペルドミナントが逃げ場を塞ぎ、イ短調のドミナントを決定づける。そこで再び右手にfで第1主題が出る(第97小節)。ダメ押しのダメ押しのようだ。

第1主題の暴虐は推移部の再現をも支配する。演奏はギレリス、再現部から。

ここにはホ短調ヴァイオリン・ソナタの「第2主題への接近」の発想もない。イ短調ソナタでは譜例の後に続く第2主題はただのパッセージである。ある程度の小節数の長さはあるが、主題としてはあまりにも影が薄い。第1主題に対抗はおろか、匹敵もできない。そして駆けめぐるようなスケール的走句の終了とともに、再び第1主題のリズムが回帰する(コ-ダ第129小節)。

こうして再現部は第1主題の独壇場と化す。それを端的に示すのが推移部である。

ベートーヴェンの『運命』風に、イ短調ソナタの第1主題を「運命のモティーフ」と呼ぶなら、それはアレグロ・マエストーゾの足どりとなる。ベートーヴェンのアレグロ・コン・ブリオ(快活な快速調)ではない。モーツァルトでは運命は行進曲のリズムで「厳粛に(マエストーゾ)」やって来る。

そして、ほとんど唯一の「主題」として、かのモティーフは第1楽章を「蹂躙」する。その凶暴な支配力はベートーヴェンの『運命』を凌ぎさえする。イ短調ソナタをして「劇的で仮借ない暗黒に満ちている」とアインシュタインにいわせたゆえんである。

周知のように、K. 304とK.310が生まれた1778年はパリ旅行の年だった。それは同伴した母親が旅先で客死するという衝撃を体験した年でもあった。そうした影を同時代の作品に追い求めるのが「主観的」で、無視するのが「客観的」だとしたら、ここではどちらにも与しない。ただイ短調ソナタの異常さは、いくら指摘しても、しすぎることはない。

イ短調ソナタにはある種の固定観念的、強迫観念的なものが渦巻いているようだ。ピアノを習い始めると、しばらくして出会う曲ではあるだろう。だが安易に近づくにはあまりにも恐ろしい曲なのである。

短調作品の核心

以上、短調のソナタ形式におけるひとつのポイントを指摘し、具体的な例で確認した。

小ト短調交響曲K.183の場合は基本的な書き方がされていた。第1主題部が終わったところで新しい楽想を出し、繋ぎはかくあるべしともいうべき典型的な推移部とした。そして再現部では、同じ部分を長調から短調に移したのだった。モーツァルトの起点を示しているともいえるだろう。

一方、ヴァイオリン・ソナタ ホ短調K.304では、一瞬、脇道へ逸れるようで、すぐに軌道修正し、短調の第2主題へ向かっているようだった。推移部で新しい楽想を出すのは小ト短調と同じだが、それが第2主題と関係づけられ、暗示していたというのが意味深である。

だがピアノ・ソナタ イ短調K.310では、これまでの2作品K.183とK.304のように、推移部で別の楽想に移ることはない。あくまでも「運命のモティーフ」が舞い戻るのである。またK.304のような一瞬の調的な逸脱もない。イ短調の呪詛から逃れることはできない。そして圧倒的な「運命のモティーフ」の存在感。

再現部の推移部というほんの一部をとっても、これだけの違いがある。そこに作品を集約するようなものさえ読めないか。

モーツァルトの短調作品の心臓部といえるかもしれない。そこでは作曲学上の思考のみならず、作者の美学さえ「読める」かもしれない。