心の闇が時代を予言する―ポリス「見つめていたい」

1980年代を飾る最大のヒット曲のひとつに「見つめていたい Every Breath You Take」がある。ポリス最後のアルバム『シンクロニシティー』からのシングルで、ビルボードのチャート8週連続1位、1984年のグラミー賞最優秀楽曲賞に輝いた。また『ローリング・ストーンズ』誌ではソング・オヴ・ザ・イアーに選出され、英国のアカデミーからは「音楽的でリリカルなlyrical」楽曲として年間ベスト・ソング賞が贈られた。

リリカルは「抒情的な」「感情を表現した」「心に訴えかける」といった意味である。音楽では lyricは「歌詞」「詩」だから、「詩的な」つまり現実的で即物的な殺伐とした表現とは真逆の「ロマンティックな」世界となる。確かに「見つめていたい」は、当時は、恋人を見守るラヴ・ソングとして受け入れられ、結婚式でもよく流されたという。80年代最大のヒット曲であり、最高のラヴ・ソングだったのである。しかし作詞作曲者のスティングは「ちがう」という(情報は英語版 wikipwdia より)。

「見つめていたい」の歌詞

歌詞はまずこう始まる(第1ヴァース)。

きみの一呼吸たりとも どんな仕草も
きみが破るどんな束縛も
きみの一歩一歩を 見ているよ

「束縛」を?「破る」?まあいいか。第2ヴァースはこうである。

一日も欠かさず きみのどんな言葉も
どんなゲームをしようと
どんな夜をすごそうと 見ているよ

ここまで来て、ちょっとやばいと思うはずだ。愛は監視なのか? 当時はストーカーという言葉、概念はなかったはずだ。それを知った現代のわれわれは、こにある異常さを見ることができるだろう。しかし当時は「ちょっとした独占欲」は愛の証といった感じで、むしろ「どんなに愛しているか」の表現を見た。

曲はいわゆる小サビとなり「きみはぼくのもの」といった常套句が歌われる。そしてヴァース3。

きみのどんな動きも きみが破る誓いを
そのつくり笑いを きみが主張する権利を
見ているよ

「きみはいつも約束を破って、つくり笑いでごまかすよねえ」という抗議をやんわりと、ある種のユーモアを交えていっているのかもしれない。しかし、とてもじゃないけど笑えない。むしろ凍りつく。曲は壮大なサビとなり、CからE♭へ3度上げ、「きみなしではいられない」と歌い上げる。

80年代ポップスの決定版

きれいなサウンドだし、歌詞の細部まで誰も聞かない。それがポピュラー音楽なのかもしれない。しかしスティングは曲の評価についても厳しかった。「ただの寄せ集めだ」。

確かに,コード進行にしても(ここではCメジャーとして話を進める)、Cから始まり、Amに行くと、「ん?」と思う。そしてさらにFで「なんじゃこれ?」。次のGはもう興味を失っているといった感じ。要するにこのC→Am→F→Gは、50年代から60年代のローティーン向けのオールディーズでさんざん聞かされた響きであり、クリシェもいいところである。

クラシックのいわゆるTSDTのカデンツの典型であり、小サビのコード進行の枠もクラシック臭すぎる(Ⅳ→Ⅰ→ⅴ/Ⅴ→Ⅴ)。

意識的かどうかは別にして、明らかにここには古き佳き時代への回想がある。60年代、ポップスに明け暮れた少年・少女は80年代になると、学校を卒業し、社会に出て、結婚し、子供とともに家庭生活をおくっていたかもしれない。そんな親たちには懐かしく、子供たちには新鮮で、親しみやすく響いたかもしれない。シンディ・ローパの曲など、新しいメッセージを込めながら、音楽は明らかに懐古的だった。

ただし、当然、オールディーズをそのまま持ち出しても話にならない。あっけらかんとしたストレートな歌詞が複雑化するのはいうまでもなく、音楽的にもいろんな工夫が凝らされた。クラシカルなハーモニーを土台としながら、まず規模が拡大された。小サビに大サビを加えたり、リフレインを絡ませたりする。そうすることで、2分ほどで耳を通りすぎてしまうのではなく、じっくりと聞かせる音楽とした。大サビの導入にはよく3度転調が用いられ、新鮮な効果をもたらした。いっそう構築が進んだわけだが、サウンド的にはシンセサイザーという武器が新たに導入されるなど、ゴージャスでカラフルに変貌した。すべてのレヴェルで情報量が飛躍的に増加したのである。

3度転調はクラシックではロマン派のスタイルだが、80年代ポップスは、オールディーズを古典とするならロマン派といえるかもしれない。

そして80年代ポップスの決定版が「見つめていたい」だったのである。

音楽が語るもの

純粋に歌詞を見るなら、「見つめていたい」には怪しいものを感じずにはいられない。しかしスティング自身も最初「それがどんなに不吉か how sinister it is」わからず、心地よいラヴ・ソングだと感じていたという。ポップ・チューンの場合、歌詞は二の次ということか。

しかしそう単純でもないのではないか。音楽的にも「見つめていたい」には歌詞の世界を示唆するようなところがある。冒頭から見てみよう。

8ビートの心地よいノリに、お馴染みのコード進行、正直いうと、わたしなどは少し気恥ずかしくなる。何の変哲もなく歌が入る。「きみの一呼吸たりとも……」。ところが「きみを見てるよ I will watching you」で何かゾクッとするものがないだろうか。聴いてみていただきたい。

ほんの一瞬だが、だからこそ、ぞっとするものがある。ハーモニー的にいえば、ここ(青で示したコード・ネイムAm)は、和声の初歩で習う「偽終止」である。普通は括弧で示したCに進行・解決するところを、Amですり抜けるのである。試しにCで弾いてみると、何でもないはずだ。「見てるよ」「はい、よろしく」みたいな感じ? しかしAmだと微妙な怪しさが漂う。

偽終止はちゃんとした終止を偽り、不発に終わらせる。「見る」という行為が執拗に続くことになるのである。しかもマイナー・コードだから暗い。愛に満ちた見守りというよりは、心の闇からの執念であるかのようだ。歌詞からの連想であり、いいすぎだろうか。

以前、本ブログ中のスティーヴィー・ワンダー「心の愛」で全く同じコード進行について書いた(「ハーモニーが言葉に魔法をかける」)。そこで書いたのは、GからCへの進行が「普通」なら、Amへの進行は「普通でないもの」を呼び起こすということだった。「心の愛」の場合は「アイ・ラヴ・ユー」をただの挨拶から心の底より溢れる言葉へと変貌させたのである。つまりありきたりの日常から非日常的な心の深層を垣間見せるもっとも単純な音楽的手法があるということ。この場合、GからAmなのである。

「心の愛」が明かしたのは真情としての愛であり、思いやりだった。「見つめていたい」も同じで、そこに嘘はないだのだろう。しかし、あるのは自己愛と所有欲にほかなるまい。歌詞・言葉では本人も気づいていないかもしれないが、そこに狂気が潜むことを音楽は知っている。

おそるべきAm、音楽は「他者なき愛」という真実を、ほんの一瞬、暴き出したのである。コーダではフレーズが繰り返され、Amも谺のように反復される。

「見つめていたい」がただの脳天気の音楽でないことは、ほかの部分から感じられる。2カ所上げておこう。
1.小サビは「クラシック臭い」と書いたが、次の部分は理解不能のハーモニー進行が うならせる(譜例 青)。

よりによって「きみはぼくのもの you belong to me」のところの不可解なハーモニー。でもこれが実にいい。才能を感じさせる。本当に彼女は自分のものなのか。口はそう動いても、心の中はどうなんだ。確信してるのか。小サビのところ、2008年のライヴから。

2.大サビは一瞬E♭への3度転調を惹き起こすようだが、和声的には変ロ長調への転調のように見える。しかし主和音たるB♭は出てこない。壮大な愛の叫びは空に舞うだけ?

「見つめていたい」の先見性

重箱の隅をつつきすぎだといわれるかもしれない。ハーモニーのほんのちょっとしたところにこだわりすぎだと。しかしこの曲がラヴ・ソングとして大ヒットししたのも、陳腐とさえいえる楽曲に、細部のワサビがほどよく効いていたからかもしれない。実際「見つめていたい」の大成功はそうした絶妙なバランスに負うところ大なのだろう。大衆にはわからないなどとはいえない。真実の響きを聞いていたのかもしれないのである。

そう「見つめていたい」で歌われているのはある種の真実でもある。光の人間と闇の人間という二つのタイプがあるとは思わない。むしろ人間には光の側面と闇の側面があるといった方がいい。別のいい方をしよう。愛には確かに所有欲、独占欲が混ざっているのも一面の真理である。ただ支配欲に溺れて、他者の存在を否定するのは、そういう現実を見ない人間だろう。人間と光と闇に分けて、自分は光だと思い込んでいる人間だろう。

「見つめていたい」はそんな人間存在のありようから「ストーカー」を音楽で表現した。表現は発現でもあり、発見でもある。現代の病巣の発見といえよう。ストーカーは「見つめていたい」以前に存在しなかったわけではない。しかしストーカーという概念が生まれてはじめて、われわれの認識のステージに登ることになったはずである。それは人間理解のいっそうの深まりを意味し、われわれ個人の問題として、また社会の問題として、現代へのひとつのステップとなっただろう。「見つめていたい」はその狼煙だったのではないか。

スティングの来日公演を武道館で観たのはいつだったか。多彩な音楽性に魅了された。でもアンコールはやはり「見つめていたい」だった。