最後の太陽が見た終着点―シューベルト『冬の旅』

冬の旅を続ける主人公がついに最終地点に到達するかにみえた時、「幻の太陽」に出会う。

「原題の Nebensonnen は日本で「幻日」と呼ばれる自然現象で、左右両側に幻日が現れると、太陽は三つとなる。しかし気象条件が変化すると左右二つの幻日は消えてしまう」(出典:Wikipedia)。ミューラーの詩では、三つのうち、良い方の二つは沈んでしまった。三つ目も沈めば闇となるが、その方がわたしには住みやすいだろうという。

詩の意味としては「三つの太陽」は象徴的にとらえるのが普通だろう。「誠実、希望、生命」を表すという説、二つを彼女の瞳、最後に残ったものは主人公の命だという議論もあるようだ。しかしわたしはやはり伝統的な「信仰、希望、愛」説をとりたい。

パウロの言葉(『コリント人への第一書簡』13章)には、「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」とある。またこうもある。「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」。「(愛は)すべてを望む」。

信仰や希望は愛によってこそ成立し、愛を起源とする。だから信仰と希望はこの世を照らしてくれる「ベスト2 die besten zwei」のようだけど、それ自体が輝くというより、愛という恒星が放つ光を反射する惑星のようなものなのだろう。根源は愛にあり、だからこそもっとも大いなるものなのである。それが消えるということは、太陽を失うように、世界を成り立たせているものが失われることになる。

ということは、ここで問題となっているのは、「おやすみ」で別れを告げた恋ではなく、世界の原理としての愛ということになる。

『冬の旅』は彼女への愛から普遍的な愛への旅だった。しかし、実は、二つは密やかに繋がってもいる。恋愛とアガペー的な愛は峻別できるものではない。具体的・個別的で形而下的であることと、抽象的・一般的、形而上的であることのバランスが重要なのであり、どちらかに偏ることにこそ問題がある。『冬の旅』は若者が陥りやすい極端から極端への旅だったかもしれない。

終曲で主人公は辻音楽師に出会う。音楽はもともと人と人を繋ぐもの。だから音楽は愛なのだろう。しかし楽師の音楽に耳を傾ける者は誰もいない。心をとどめる者はない。彼は惰性的かつ一方的に音楽を垂れ流しているだけのよう。とはいえ、彼は愛を完全に否定し、死を決意することもない。まるで死からも拒まれ、かすかな存在の証をただ排水溝に流し続けるみたいだ。

光でも闇でもない世界を何というべきなのか? たとえ最後の太陽が残っているとしても、亡霊のような存在に光は耐えられるのか? 死を拒んでいるのがわたしだとしたら、まだどこかに愛が眠っているのか? いや、この宙ぶらりんこそが存在というものなのか? シューベルトはそんな辻音楽師に自身の投影を見たのかもしれない。