レモンの花咲く国へ―シューベルトの歌曲から器楽曲を「読む」
二つの楽譜がある。いずれもシューベルトの楽曲の一部だが、上は歌曲「ミニヨン(ご存じですか、レモンの花咲く国)」D.321、下は即興曲ハ短調D.899の1。一見、よく似ていないか。
いずれも途中から三連符が現れる。対照的に、前の部分は一貫したリズムの刻みがない。三連リズムは一拍を3で割った、座りの悪い、不安定なリズムである。安定した歩行というより、スキップするような浮遊感がある。少なくとも「運動性」が強まり、音楽が動き出すのである。これを詩と対比づけてみよう。
ご存じですか レモンの花咲く国
木の葉の陰に 金色のオレンジが育ち
(ここで三連リズムが始まる)。
やさしい風が 青空にそよぐ
ミルテの木は静かに繁り 月桂樹の木は高くそびえる国
三連リズムは、明らかに、かの国にそよぐやさしい風のイメージの音楽化だろう。レモンの花が咲くという楽園からの息吹が漂うのである。両足は確かに、ここに、この地に、現実にあるのかもしれないが、心は憧れの地へ飛翔する。ロマン派が創出したアイドルともいえる、病身で不幸な少女ミニヨンの夢が羽ばたくのである。この効果をさらに強化するために、シューベルトはイ長調からハ長調へ転調させた。
つまり三連リズムの導入と転調は、こことは違う世界への飛翔の音楽的表現とみなせよう。そこでは夢見がちな浮遊するリズムが支配する。こうして歌詞がないピアノのための即興曲ハ短調でも似た表現を読みとれるだろう。
ただし後年の即興曲では二つの点で異なる。1)前半は歌曲では長調だったが、即興曲では短調となる。2)調の選択は、歌曲ではイ長調→ハ長調の短3度上なのに対し、即興曲ではハ短調→変イ長調の長3度下となる。いずれもいわるゆる近親調ではなく、遠隔調であり、意外感、新鮮さを醸し出す。新たに開かれた世界は快い驚きととも出現する。なお3度転調は長3度下が一般的となる。
即興曲では前の部分を短調にすることで、憧れの地への飛翔の効果をいっそうコントラストを強め、くっきりと描いた。歌詞がある「ミニヨン」と違って、器楽曲ではこうした効果の強化が必要だったのだろう。
なお上のブレンデルの演奏では、音楽が、一瞬、方向性を失う譜例「?」のところで微妙なテンポのニュアンスをともなう。シューベルトが指示したppに敏感に反応しているのである。さらに三連リズムの世界では音色がいっそう柔らかく息づく。確かに暗い世界と光の世界で音の色が変わるのは当然だろう。これは歌についてもいえるはずだが。