作者と作品ーシューベルト/ゲーテ「恋人のそばに」D.162補遺

先の投稿への補足事項を確認しておきたい。ゲーテの詩「恋人のそばに」の解釈でのある意味「深読み」の根拠は、4つの目のスタンザの最後に「ああ、あなたがここにいたなら!」という1行の存在にあった。つまり恋人は「思う」「見える」「聞こえる」そして「いる」とまでいっていたのに、実はそばに「いなかった」ことを明らかにするからである。この最後のひねりの掘り下げに、解釈が一挙に深まる可能性があったのだった。しかしシューベルトは、作曲するにあたって、そこまで考えたという確証はない。むしろ疑わしい。

ちなみに、ベート―ヴェンも同じ詩に作曲したが、その作品とは「『きみを思う』による四手のピアノのための6つの変奏曲」WoO.74である。WoO(作品番号なし Werk ohne Opuszahl)は作曲家が正式な作品番号を冠しなかった作品で、ベートーヴェン自身が高く評価しなかったことがうかがわれる。珍しい歌つきの連弾による変奏曲で、自分のピアノの生徒のために書かれた初版譜の表紙には「ヨゼフィーネ・ディム伯爵夫人とテレーゼ・ブルンスヴィックに捧ぐ」とある。

実はヨゼフィーネとテレーゼは姉妹であり、ともにブルンブルック家の伯爵令嬢だった。ウィーンに1799年5月に定住し、二人はすぐにベートーヴェンにピアノを習うことになった。作曲の時期とされる1799年とぴったり重なり合う。しかしヨゼフィーネは7月にディム伯爵と結婚した。だから1800年の初版には「ヨゼフィーネ・ディム伯爵夫人」とある。ちなみに二人はベートーヴェンの人生に深くかかわった。ヨゼフィーネはベートーヴェンにもっとも大きな影響を与えた女性とされ、テレーゼは例の「永遠の恋人」そのひとではないかともされた。ベートーヴェンはこれらの女性に対して、友情と恋の間をいつも揺れていたのだろう。テレーゼには後年に作品78のソナタ「テレーゼ」が献呈されている。なお「エリーゼのために」のテレーゼは、テレーゼ・マルファッテイであり、別人である。「永遠の恋人」は誰で、「エリーゼのために」が誰のために書かれたかの論争は絶えないようだ。

ベートーヴェンの曲ではゲーテの詩は第1スタンザだけが採用され、それをテーマとして変奏が続く。ということは、詩の解釈上重要な第4スタンザを欠いており、ベートーヴェンは明らかに深い読み込みをしていない。この曲の特殊性は明らかに作曲の動機から説明できる。すなわち連弾曲であるということは姉妹のために作曲されたこと、そして主題が歌になっているというのは、歌詞内容があるメッセージを帯びていることを示唆している。ベートーヴェンはそこに「離れていてもきみを思う」という二人の女性への気持ちを託したのだろう。

しかし、それ以上でも、それ以下でもない。愛をめぐるゲーテの詩への深い解釈には踏み込んでいない。なぜなら2つ目以下のスタンザは省略されているからである。いわば、自分の気持ちを伝えるために、ベートーヴェンはゲーテの詩をちょっといただいたという感じか。

同じ詩に曲をつけるにあたって、シューベルトはベートーヴェンの作品を知っていたのだろうか。ドキュメントとしての記録は残っていないだろう。スタイル的にも、古典的にきっちりとしたベートーヴェンと、より自由なシューベルトには圧倒的な違いがある。ただベートーヴェンの主題の後半、特に終結部はそれとなく似ているとも思わせる。下の譜例では、シューベルトの方を原曲の変ト長調からニ長調に移し、ベートーヴェンの調に合わせてある。

全体的な旋律線の動きも似ているようでもある。

まあ一度知ってしまったら、その影響力から完全に抜け出すのは難しいということだろうか。シューベルトの世界になりきっているとはいえ、どこかにベートーヴェンがこびりついているという感じがしないでもない。模倣や真似というレヴェルは問題にならない。しかし詩に対する感覚は共通していたのかもしれない。

というのは、初版では、シューベルトは2番の歌詞しか書いていないからである。「あなたを思う」感情に違いはあるかもしれないが、詩の解釈上の決定的な違いはないようだ。なぜなら、両方とも解釈上の要ともいうべき第4スタンザを欠いているからである。

しかし第2稿で、シューベルトはゲーテの詩の全体、すなわち第4スタンザまでを書き加えた。おそらくは出版に向けての作業だったかもしれない。初版譜は4つ全部が入っているからである。ひょっとしたら、その時、最後のひねり加えた詩の恐るべき深さに気づいたのかもしれない。可能性は低いように思われる。音符を一個も変えずに、ただ歌詞を増やしただけだからである。後世へは、当然、この形で伝えられた。

だから、シューベルトは最初は2番の歌詞までしか想定していなかったという理由で、「恋人のそばに」は重く解釈すべきではなく、軽く歌われるべきだという主張があるかもしれない。しかしわたしはこの立場をとらない。

なぜなら、作品は作者が産み落とすや、独り歩きを始めるからである。もはや親を離れ、みずからの生命で、さまざまな解釈の海原に乗り出すのである。問題はそれがありきたりの狭く浅い一時的な解釈の範囲にすぎないか、それとも無限の可能性を秘めた「海」か、ということなのである。後者こそが名曲たるゆえんなのだろう。

そうした意味で、シューベルト/ゲーテの「恋人のそばに」はまさに名曲といえるだろう。人間の普遍的な「思う」から入り、愛をめぐる省察の射程は、作曲者が知らなかった以上の、広大で崇高な可能性に開かれている。いや、シューベルトの天才は本能的に気づいていたのかもしれない。