人生は水、舟は?―“The Water Is Wide” カーラ・ボノフ

1970年代は数々の女性シンガー・ソングライターが頭角を現した時代だった。その中で、特にとんがった存在ではなかったが、女性の繊細な心情をもっとも陰影ゆたかに歌った音詩人がいた。カーラ・ボノフである。

彼女のお気に入りで、いつもライヴの最後に歌ったスコットランド民謡がある。東京のビルボードに来た時もそうだった。「悲しみの水辺 The Water Is Wide」である。静かにたゆとうような曲だが、深い思いを湛えていた。

水面は広く わたしには渡れない
翼をもっているわけでもない
二人を運ぶ舟をください
愛する人とわたし 二人で漕ぐでしょう

愛はやさしい思いやり
新しい花 はじめはあまりに甘美
でも 愛は年月を重ね 次第に冷めて
朝露のように 消えてしまう

海を渡る船 荷を積みすぎて 沈みそう
でも愛に溺れるわたしほどではない
わたしは沈んでも
泳ぎ方も知らないのです

水面は広く わたしには渡れない…

水 water は「水面(みなも)」と訳したが、川、河、池、あるいは湖なのだろうか、最後のヴァース3では、海 sea とあるから、限定された何かではないのだろう。わたしの前に横たわる、渡るべき「水」なのである。といっても、もちろん水そのものではなく、何かを象徴しているとみなすべきである。

行方に立ちはだかる水がある。われわれはそこを渡っていかなければならない。常套的な詩的比喩として、渡るべきこの「水」とは、生きるべき「人生」と読めるだろう。人生は長く、静かな凪もあれば、波乱に満ちた嵐もある。主人公はそんな自分の人生の前に立っている。そして翼もないわたしには、そこを渡るしかないのである。

だが人生を渡る舟とは何だろう(ここでは手漕ぎの boat を「舟」、大きな ship を「船」とした)。愛する人とわたしを運んでくれる舟。それは二人で人生を生き抜くための「愛」にほかなるまい。深く広い水=人生。たった独りでこの人生を歩むことには不安がいっぱい。でもあなたと一緒なら、二人で漕ぐなら、できる。そのための舟を、つまり二人を結びつける愛をください。生きるための愛をくださいという祈りが歌となった。

ところが、2番の歌詞では、その愛の宿命が歌われる。愛は最初は新鮮で、甘美。でも時とともに冷めてしまうのは、人生の常ではないか。わたしを生かせてくれる愛なのに、年とともに萎えてしまい、消えてしまったら、どうすればいいのか。愛を持続させ、強制的にとどめておくことは不可能である。愛に無理強いもできない。

でもひとつの可能性があるかもしれない。愛をとどめておくためのこの世の習わしがあるとしたら、それは結婚だろう。もちろん絶対の保証ではない。愛は消えるというのが宿命だとすれば、ほんの気休めであり、一縷の望みにすぎないだろう。しかし、ともに生きているうちに愛の炎がくすぶるとしても、いつか再び火がともるかもしれない。一緒にいれば、ともに成長し、新しい自分を、新しい相手を発見できるかもしれない。疑いと不信が生じても、いつか乗り越えられるかもしれない。結婚は絶対ではないとしても、二人の関係をとどめ、深めてくれるバリアーになるかもしれない。

「舟」は、第1ヴァースでは二人を繋ぐ「愛」、第2ヴァースでは結びつきをより強くするかもしれない「結婚」が示唆されているように見える。


愛は大切なもの。でもわたしにとっては大切というより以上のもの。なぜなら、それなしには、人生を歩んでいけないのだから。船が荷を積みすぎて、沈んでも、乗ってる人は泳いで助かるかもしれない。でも愛を背負いすぎたわたしは、泳ぐこともできない。人生という海におぼれ、ただ死ぬしかない。「あなたなしには生きていけない」。そんな直接的ないい方は一切していない。しかし最後のヴァースでは、溢れる思いがさりげなくも、深く、ひたひたと滲み出す。

まさにスコットランド民謡の真骨頂の感がある。

なおこの曲はピーター・ポール・アンド・マリーが「ゼア・イズ・ア・シップ」の名でとりあげ、ヴァースを入れ替えたり、加えたりしながら歌っている。また「ザ・ウィーター・イズ・ワイド」は「オー・ワリー・ワリー O Waly, Waly」の名でも知られており、特にベンジャミン・ブリテンの編曲版が有名である。

だがわたしにはカーラ・ボノフの歌がしっくりくる。