モーツァルト短調作品の心臓部を「読む」2―K.388とK.421

「1」で説明したように、音楽作品では、音楽の「顔」ともいうべき安定的な楽想と、それらを繋ぐ不安定な部分から構成されるのが普通である。ちなみに構成する composeとは、作曲する compose ことにほかならない。

繋ぎの部分は時として「橋渡し」の役割、機能が不要となる場合がある。つまり存在理由を失うのである。存在することの理由を失った部分に意味、意義を付与すること、それはただの技術以上のものを作曲家に要求する。

たとえば、ソナタ形式の提示部では、異なる調の第1主題と第2主題を繋ぐ推移部がある。ところが再現部では調性の違いは解消される。長調作品は常にそうなるのだが、モーツァルトの場合、短調作品でも同じことが起きる。再現される第1主題と第2主題は同じ調、すなわち主調なのである。もはや調的な調整、調停の必要は無いわけだが、そこをどうするか。

まさにこの形式の眼目ともいえる部分に焦点を当てて楽譜を、あるいは音楽そのものを「読む」ことが、ここでの目的である。

なぜか短調のセレナード

前回のピアノ・ソナタ イ短調K.310に続く短調作品として、まずセレナード第12番ハ短調K.388をとりあげるよう。

元来、祝祭的な野外音楽であるセレナードがなぜ短調なのか? どんな機会がこんな曲をモーツァルトに書かせたのか? 確かに『ハフナー』K.250.『ポストホルン』K.320などでも暗い影を落とす楽章が存在する。しかしそれらは晴れやかな祝宴の光をいっそう明るくする陰のようでもある。

ところがK.388は主調がハ短調なのである(第2楽章のみ変ホ長調)。しかも第3楽章は込み入ったカノンで書かれており、セレナードにはまったくそぐわないようにも見える。ただしモーツァルトにおいては学問的ともいえる書法は戯れの音響に変容するかのようなのだが。

楽章構成もシンフォニーなどに接近しており、第4楽章フィナーレでは変奏曲の途中でホルンの音響から変ホ長調の光が射し込む。いったんハ短調に戻るが、さすがに最後はハ長調でにぎやかに終わる。結局、機会音楽を超えた何かが奇妙に混在したセレナードとして成立してるようだ。

早速、第1楽章の短調のソナタ形式の構造を見てみよう。ポイントは再現部の推移部である。

まずバスに第1主題を出すところは提示部と同じだが、再現部では後半の2小節(譜例 赤)が下方にずれて、いかにも繋ぎ的な動きを示す。バスが辿り着いたBから半音階的に下行し、ついにAsから決定的に属音Gへ到達する(譜例 赤丸)。ドッペルドミナントDDでももっとも強力な「ドイツの6の和音」からのドミナントの確立である。

長いドミナント領域(赤の下線、12小節間)が形成され、第2主題の再現を待つ。そして主題が現れる。ここが最も特徴的な書き方だろう。

闇を求めて?

第170小節からホルンに属音の保続音(オルゲルプンクト)が現れ、解決待ちの待機状態が続く。ここから上声部で半音階での上昇の動きが生じる(譜例 青矢印)。そしてソプラノの到達点であるCから第2主題が出るのである。

これは提示部ではなかった。なぜ再現部でこんな書き方をしたのか? まさに第2主題へ向かう部分である。

一般に、上行、上昇は音楽では意志的な志向の現れであり、特に半音階は「肯定」「希望」へ向かう希求のようでもある。『トリスタンとイゾルデ』のいわゆる「憧れの動機」など典型的である。憧れる対象が希望的なものでないというのは考えにくい。ちなみに半音階の下行だったら、意志的なものの減衰、消失、「否定」「諦め」といった表現を想い起こさせる。

したがって、ここでの半音階の上昇ラインも、肯定的なものへ高まる動きのようだ。実際、もしハ「長調」で第2主題を出したら、素晴らしい効果が得られただろう。半音階の不安定な響きから到達したまばゆいハ長調である。手探りしながら歩みを進めていた暗闇に、光が降り注ぐように響いたはずなのである。

再現だけのあの特徴的な書法からすれば、長調での効果的な再現が予想されるということである。作曲の先生ならそう教えるかもしれない。

そんなことをモーツァルトが知らないはずはない。しかし彼はあくまでも短調にこだわった。。ハ短調の第2主題の出現によって、かすかな希望も潰え去るかのようだ。

純音楽的解釈

しかし「効果」や「表現」のレヴェルではなく、純音楽的に解釈することも可能だろう。そのためには提示部での同じ部分と比較する必要がある。

上は提示部での第2主題だが、冒頭の音Bは変ホ長調の第5音である。再現部で同じ主題をハ短調に移すとしたら、最初の音はやはり第5音、すなわちGになるはずである。提示部のBに対して3度下がるのである。ところがモーツァルトはそうしなかった。再現では主音Cから主題を導入したのである。なぜか。

モーツァルトは、Gではなく、Cが欲しかったのだろう。半音階の上昇が目指すのはまさにこの音であり、提示部との旋律の同一性より、Cからの出現を優先したのである。そのために旋律の骨格も変えたのだった(第178-9小節)。だが6小節後(第183小節)の再提示のさいは、提示部に対応して、あるべきGに戻されている。旋律全体の開始の音はCでなければならなかった。

明らかに主題の入りをくっきりときわだたせたかったに違いない。そのためにはGよりもCが有効である。それでこそ、もごもごするようなクラリネットの3度の上で、オーボエが鮮明な弧を描いて旋律を浮かび上がらせることができる。

セレナードハ短調K.388は後に弦楽五重奏曲K.406に編曲された。だがフィナーレの変ホ長調部分(第97小節以下)でのホルンの用法から、この曲を弦楽器に移し替えることに疑問を呈したのはアインシュタインだったか。確かに、そういいたくなるほどに、管楽器への鋭い嗅覚に満ちた曲なのである。

次の演奏は再現部から。

それにしても、この曲でのオーボエの最高音はDだが、Cはそのすぐ下の音である。第2主題全体の頂点の音でもあり、そこから逆アーチ状に旋律が広がる。この構図はハ短調大ミサ曲K.427を想い起こさせる。『キリエ』における「クリステ・エレイゾン」のソプラノ・ソロである。そこでは天上から浄福の光が射し込むような効果がもたらされている(本ブログ内「その時、魅惑的な瞬間が訪れる―モーツァルトにおける古典的な3度転調」参照)。

ミサ曲では「クリステ」の旋律は長調で降臨する。書法、調性、旋律構造は音楽がもたらす効果と完璧に一致しており、理論と表現が一体化している。しかし、ハ短調セレナードでは待望された第2主題はあくまでも短調なのである。直前のC音への上行のプロセスも含め、これらをどうとらえるべきだろうか。

複数の解釈が可能だろう。1)モーツァルトのペシミズムの現れとみなす。長調が期待される書法の中であえて短調を出すことで、悲劇的なものをいっそう痛切とする。2)純音楽的なものと効果の不一致を見る。ちなみに1と2は補完関係にあるかも知れない。

「読む」ことは唯一無二の解答に到達することを意味しない。むしろ複数の可能性を排除しない。ただわたしはここでは2の解釈、すなわち理論と表現が完全に一致していないものを感じる。セレナードという概念と音楽そのもののちぐはぐさという曲全体が内包する何かが垣間見えるようだ。

あくまでも純音楽的に-弦楽四重奏曲ニ短調K.421

作曲順に次に来る短調作品は「ハイドン・セット」の2曲目である。実はこの曲に関しては特筆すべきことはそう多くないかもしれない。ただ推移部でモーツァルトがいかに多彩なアプローチを試みているかを証明することにはなるだろう。

転調の手続きは当然異なるものの、楽想的には再現部の推移部は提示部と同じである。第1主題の断片を引き延ばすようにして、推移部は進む。小さな調の揺れ(第84-86小節)はあるが、第88小節の半終止のDへ向かう想定内のハーモニーである。大きな転調はない。

到達したこのドミナントはドッペルドミナント(ここでは「ドイツの6の和音」第89小節)によっていっそう強固なものとされる。ところが4小節後にトニックへ解決してしまう。そして念を押すようにカデンツTSDTが形成される。

入念に確立され、安定したニ短調の道を踏みしめて、第2主題がやって来る。

短調作品でこれまで見られなかった書き方である。ドミナントの長い領域を置いて、トニックへの解決とともに第2主題を出すのが普通だった。ところがここではご丁寧にカデンツで仕切り直して、第2主題が登場するのである*。

*これまでの書き方からしたら、第93小節は省略することも可能だったかもしれない。ただこの曲では第1主題部と第2主題部の二部構造を強調したかったのかもしれない。そのために、きっちり第2主題の前で区切ったのか。ちなみに第1楽章を速すぎるテンポで始めると、第2主題以降の三連リズムがせわしなく、それゆえ音楽的でなく聞こえてしまうことになりかねない。アレグロ・モデラート(モデラート寄りの、ややゆったりとしたアレグロ)はそれを見越した指示なのだろう。

これを文章で比喩的に示してみようか。従来の方法では「推移部で待機状態が続くところへ、第2主題が飛び込んでくる」といった感じか。これに対してニ短調四重奏曲の場合は「推移部はここまでとなる。それから、第2主題が来る」とでもなるだろう。複文と単文二つによる構文の違いである。

再現から聴いてみよう。

ここには「繋ぐ」という機能におけるイレギュラーなものはない。定石どおり、提示部を忠実に再現して、しかもことさら堅実に、音楽は進行する。きわめて客観的であり、純音楽的に隙のない書き方といえよう。

厳格な書法が要求される弦楽四重奏に挑む姿勢が反映されているのだろうか。

イレギュラーなものと表現

ニ短調四重奏曲K.421が客観性に傾いているというのは、主観性に乏しいということでもある。別のいい方をすれば、基本に対してイレギュラーな要素が少ないともいえるだろう。

ここでいう主観性を「表現」に置き換えれば、表現はイレギュラーなものに現れることになる。

音楽を評価するにあたって、レギュラーでないという理由で、マイナスへ傾く場合があるかもしれない。実際、そうした曲もあるだろうが、モーツァルトなどはそのようなレヴェルにはない。

すぐれた音楽作品ではイレギュラーな部分にこそ注目なのである。なぜなら、そこに作者の託したものが顕れるからである。だからこそ、わたしなど、楽譜を眺めていて「普通でない」書き方を発見したら、大喜びなのである。