心はざわめきの中に―ショパン「雨だれ前奏曲」4
いつか学生に聞いたことがあった。「『雨だれ前奏曲』のどこが一番好き?」。彼はこういった。「暗い中間部から最初に戻ってくるところかなあ」。なるほど。いわゆる「ブリッジ」とかいわれる繋ぎの部分だよね。いいねえ。
「雨だれ」についてはこれまで3つのシリーズでとりあげてきた。4つ目を書くことになるとは。
楽想をいかに繋ぐか
ポピュラー音楽とクラシック音楽の違いはいくつかあるが、あまりいわれないのは「繋ぎ」の存在の有無だろう。ポピュラー音楽ではAメロにBメロ、それにサビやリフレインといったメロディーが連続する。旋律性、あるいは歌の要素の多少の違いはあっても、いくつかの楽想が並列されるのである。
しかしたとえばクラシックのソナタ形式を見てみよう。まず第1主題という旋律、あるいは楽想の部分が来る。そしたら次に第2主題への橋渡しをする部分、ブリッジが来る。ただのパッセージに解消されたり、第1主題の断片を反復したり、やり方はさまざまだが、次の楽想に直結されるのではなく、音楽はひとしきり移行的な手続きに入るのである。楽式だったら「推移部」といったりもする。
そして次の第2主題に到達するのである。要するにクラシック音楽は主要な楽想とそれらを繋ぐ部分から構成されることがわかる。こうしてこの音楽の最大の特徴が明らかとなる。
何といってもポピュラー音楽に比べて、クラシック音楽は「長い」。その理由は「繋ぎ」「ブリッジ」が結構大きな割合を占めるからである。
しかし繋ぎは主要主題ほど目立つべきではないが、音楽が陥没してもならない。要するに、ブリッジは脇役なのだが、ただの端役ではない。すぐれたバイプレイヤーにはちゃんとした存在理由があり、劇を成立させる鍵とさえなる。コンチェルトだったら、ここでソロ楽器はスケールやアルペジオなどの技巧的な技を仕掛ける見せ場とさえなる。だが、一般に、心の琴線に触れるような瞬間は旋律的な場面に訪れるのである。
逆にこういっておこう。旋律や楽想は思いつくことがあるかもしれない。しかしよいブリッジを書くには、才能はもちろんだが、技術やセンスも必要となる。誤解を恐れずに、単純化していえば、うまく音楽を繋げられるかどうかがすぐれた作曲家の証明のひとつともなる。
帰還への道
そんなすぐれた作曲家のひとりにショパンがいるように思われる。彼はベートーヴェンを嫌ったようだが、ブリッジを書く名手としてはよく似ているところがある。
ただし、一般的に、ブリッジへのアプローチは曲やジャンルによって異なるように見える。一義的な決めつけは危険だろうが、ショー・ピース的な曲では楽想が並列される傾向があり、より芸術的な楽曲では周到なブリッジが書かれるようだ。
ショパンの曲でもワルツなどのサロン風の作品とソナタ、およびソナタの一楽章のようなバラードやスケルツォなどでは作曲への姿勢が違うように見える。姿勢の違いがまさにブリッジで現れるのである。典型的な例を見てみよう。たとえば「雨だれ前奏曲」である。
『前奏曲集』作品28の第15曲の構造は、変二長調Aと嬰ハ短調BのA1BA2の三部家形式+コーダとなる。二つの調は異名同音を主音とする長調と短調であり、それぞれの属音A♭=G♯が同一のリズムを貫く(中間部では一部、ロ音B)。
つまり長調と同主短調という明暗のコントラストの強い楽想を並べたのである。コントラストは音域の狭い弱音を中心としたデリケートなAと、オクターヴを駆使して巨大に膨れ上がるBの書法の対比にも現れている。構想は明確である。しかしおどろおどろしくも暴虐をきわめるBからどうやってAの静寂が回復されるのか。
ここに説得力のある「帰還への道」、すなわち適切なブリッジを架けることは、作曲家に少なからず難しい課題を課すことになるだろう。だがショパンの回答は聴く者に「この曲で一番好きなところ」といわせる結果となった。
傷から癒やしへの足どり
再び確認だが、AとBは明確に分けられた領域を成し、長調と短調が支配的なのだが、単純にそうともいえない。明るいAでは、時々、ハーモニーの揺れによって短調の影が射す。ロマン派的なスタイルといえよう。またBでは巨大なクレッシェンドが行き着くff(第40小節と第56小節)では、当然、嬰ハ短調に向かうかに見せかけて、平行調のホ長調の和音が炸裂する。
だから単純に長短の図式では収まらないのだが、それでも、長調A-短調Bの領域がこの曲の二つの支柱となるのは間違いない。そして問題のBからAへの帰還部分である。「雨だれ前奏曲」シリーズ3でも軽く触れたが、ここでは中間部の全体を、若干、詳しく分析してみよう。ショパンはこう書いたのだった。

中間部Bが嬰ト短調で終止して、ブリッジが始まる(第60小節)。すぐに嬰ロ音 B♯ が右手に現れ、嬰ハ短調へ傾く。主調への回帰であるとともに、下属調に落ち着くのである。5度下のサブドミナント領域への下降は音楽に弛緩をもたらす。中間部の巨大な緊張が去った後の虚脱感を表すようだ。
ブリッジは中間部を引き継ぐように始まるのだが、これまでになかった新しい要素が現れる。まず61小節目の頭に出る嬰ハC♯-嬰ニ D♯ の「長」2度のぶつかりである。次の小節では、嬰ニD♯-ホE の「短」2度が軋み、いっそう痛々しい響きとなる。上の譜例では青で示し、長と短は、一応、色の濃さで表してみた(短の青色が濃い)。
これは「苦痛」といった表現のためのバロックの常套的手段である。ショパンの用法では、中間部で打撃を受けた心の傷からもれ出るうめきのようだ。「その時」はまだ何が起きたかわからないかもしれない。傷の深さが実感されるのは「我」をとり戻してからだろう。
第63小節で、嬰ハ短調への終止はイ長調の和音で回避されるが(いわゆる偽終止)、バスのイA と上声の嬰トG♯ が短2度でクラッシュし、割り切れななさを強める。そこにむなしさが漂うようだ。
そして64小節目から新しい部分に入る。ここから嬰イ A♯ が見え隠れするようになるのである(譜例 赤)。ショパンのやりたいことはよくわかる。「癒やし」の兆しか。癒やしは変二長調=嬰ハ長調で訪れる。ということは、嬰ハ短調でいえば、第3音ホ E と第6音イAが♯化すればいいのである。完全に長調に転じるには、特に、第3音が決定的である。だからここでは不完全な第6音のみをシャープとし、長調は暗示されるにとどまる。癒やしの「兆し」といったゆえんである。
まだ完全な回復には遠かった。再びブリッジの冒頭部分が繰り返される(第68小節)。だが「癒やしの兆し」といった部分で、嬰イA♯がソプラノでいっそう明確に、しかも執拗に現れるようになる(第72-4小節)。そして遂に変二長調の冒頭部分に辿り着くのである。別のいい方をすれば、はじめてEはE♯=Fとなる。
完璧なブリッジではないか。
ブリッジは心のざわめき
Aへの帰還は完全な癒やしであるはずだった。だが「完全」はなかった。もし回復が十全に満たされていたら、27小節あったAはそのままたっぷりと反復されてもよかっただろう。しかし戻ってきた時は実質8小節しかない。それほどあの打撃は大きかったということか。かろうじて鎮静化がはかられるのは、続くコーダともいえる6小節だった(第84小節以下)。

コーダに降り立つ前に、2小節だけ、全体に貫かれる「雨だれ」のリズムが途絶える瞬間が訪れる。時間に縛られていた自我が、一瞬、わたしを呼吸する間とでもいえばいいか。だがすぐに時間に引き戻される。生きるということの宿命であるかのように。
最後のコーダで行き着くいたのは、諦念だっただろうか。
ちなみにコーダの最初に内声に出るB♭→C→D♭の進行は、ブリッジ冒頭のB♯→C♯→D♯を想わせる。コーダの平穏はブリッジの影を宿しているのか。
それにしても「雨だれ前奏曲」のブリッジは「完璧」という以上のものがあるようだ。よくできました、優等生の回答ですという以上の何かを表現しているではないか。そう、表現、それもきわめて個性的な表現なのである。
単純化していえば、「雨だれ前奏曲」は二種類の音楽で構成されていた。変二長調の平穏なA、暗く、不気味なB、そして最後のコーダ、これらは明暗の差こそあれ、比較的、安定した部分といえよう。しかしもう一種類の音楽がある。BからAを繋ぐブリッジ部分である。調が揺れ、不協和音が解決を拒み、とどまることなしに不安定さを醸し出す。不安を抱え、闇の中で光を求めて手探りで進むような、まさに「繋ぎ」の部分である。
これは人の心の状態を映し出しているといえるかもしれない。喜びであれ、悲しみであれ、人は一定の感情にとらえられていることがある。完全な無風状態ではないかもしれないが、比較的安定的な心の状態である。
これに対して、不安定な状態というのもある。心が砕け、それゆえ動揺し、悩んだり、心配したりすることがある。誰だって経験があるだろう。まるで木の葉が風に舞うかのような状態である。多くの場合、心を砕くものは現実からやって来ないか。最終的にそれらはより大きな自分へと受け容れられるしかないのだろう。それが成長なのだろう。
ショパンの「雨だれ前奏曲」のブリッジ部分はまさにそんな心のざわめきをとらえたように聞こえる。心の機微を迫真的に描いたのである。
つまりこういうことである。ブリッジは単なるひとつの楽想から別の楽想への繋ぎではない。ショパンにおいては、時間を呼吸している心の動きそのものを映し出す鏡となったのである。これはまさにロマン的表現の究極の回答であろう。なぜなら心の存在は、心臓の鼓動のように、運動そのものによって強く意識されるだろうからである。





