入り江に沿ってやって来た ―60年代のボブ・ディラン6

1967年7月29日、モーター・サイクルの事故に遭遇し、ボブ・ディランは隠遁生活に入った。事故の程度は公的には明らかにされていないようだ。実はディランは65年にサラ・ラウンズと結婚していた。そして事故前の67年7月11日に第一子が生まれている。デビュー以来の荒波を乗り越えて、ディランは家庭という港に停泊したのだろうか。

事故を起こしたウッドストックにこもって、ボブ・ディランはザ・ホークス(後のザ・バンド)とともにセッションに明け暮れた。この音源からはザ・バンドのデビュー・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(68年)に楽曲の一部が流出し、後にアルバム『地下室』(75年)として、ボブ・ディランとザ・バンド名義で世に出ることになる。結果として、後の音楽活動のための「充電」となったに違いない。

『地下室((ザ・ベースメント・テイプス))』

1967年12月、第8アルバム『ジョン・ウェズリー・ハーディング』が発表された。前作『ブロンド・オン・ブロンド』から1年半ぶりのリリースである。67年といえば、6月に発表されたビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の衝撃のもとで、新しいサウンドに火がついていた。エレクトロニクスを多用し、神経をハイにする極彩色のサイケデリック・サウンドである。しかし『ジョン・ウェズリー・ハーディング』はギンギラギンの音響とはもっとも遠かった。ほとんどハーモニカとギターとベース、それにドラムスだけのアコースティックで質実な音だった。

時代からの孤立?は内容にも見られた。スコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」(67年5月)、ママズ・アンド・パパズの「夢のカリフォルニア」(67年12月)が象徴するように、時はフラワー・ムーヴメントが吹き荒れていた。67年夏はサマー・オヴ・ラヴとも呼ばれ、「武器より花を」をスローガンに、ヒッピー運動が盛り上がっていたのである。ほかならぬディランもかつて「時代は変わる」を歌い、時代の新しいうねりを先導する旗手だった。だが『ジョン・ウェズリー・ハーディング』はこうしたカウンター・カルチャーの動向とは何の関係もなかった。

音楽的にいえば、驚くべきは、『ブロンド・オン・ブロンド』で垣間見られた、音楽的工夫がほとんど消えたことである。唯一の例外を除いてサビはなく、独立したリフレインの楽節が置かれることもない。ただ1番、2番、3番と歌詞を変えて歌われるだけで、ほとんど民謡か童謡のようだ。サウンドも楽曲としても単純のきわみであり、3曲ほどはワン・フレーズがずーっと繰り返されるようでもある。全体の印象を単純化すれば、ブルースとカントリーの混合物か。これも時代からの孤立現象といえよう。

歌詞の内容はどうか。『ブロンド・オン・ブロンド』までの幻想の深い霧はいくぶん晴れたようではあるが、それでもさまざまな解釈へと促す多義性を帯びている。アルバムのタイトルともなった第1曲「ジョン・ウェズリー・ハーディンク」は実在したという「弱きを助け、強きをくじく」民衆の英雄の歌。「ライク・ア・ローリング・ストーン」で過去の自分を全否定したディランが、自分のことを歌っているなどありえない。ただ弱者への眼差しという点ではアルバムの基調を示唆しているかもしれない。

「聖オーガスティンを夢でみた」は悲惨な現実にあって真理を希求するアウグスティヌスが呼び起こされる。そして自分は「彼を死に追いやる側だ」と。そういえば、このアルバムではキリスト教や聖書への言及が多いかもしれない。「見張り台からずっと」は『旧約聖書』に拠るというのが定説である。「見張り塔からずっと王子たちが見張っていた」のラインがその根拠だが、「イザヤ書」第21章第6節以下を引用しよう。

主はわたし(預言者イザヤ)にこういわれた。「行って、見張り人をおき、その見るところを告げさせよ。
馬に乗って二列に並んだ者、ろばに乗った者、らくだに乗った者が見えたならば、耳を傾けて、語るところをつまびらかに聞かせよ」。
その時、見張人は呼ばわっていった。「主よ、わたしがひねもすやぐらに立ち、夜もすがらわが見張所に立っていると、見よ、馬に乗って二列に並んだ者がここに来ます」。
彼らは問いに答えていった、「倒はれた、バビロンは倒れた、神々の像はことごとく打ち砕かれて、地に伏した」。

新バビロニアのネブカドネザル王は紀元前586年にエルサレムを陥落し、ユダヤ人たちは捕虜となり、バビロンへ連行された(バビロン捕囚)。しかし栄華をきわめたバビロンは、豪奢と華美におぼれ、逸楽にふけり、おごり高ぶり、放逸・放恣をきわめていた。そんなバビロンに神罰が下った。

ジョン・マーティン『バビロンの陥落』(1835)

ここで何がいいたかったのか。ひとつの解釈として、ディランの頭にあったのは、もしかしたらヒッピーの運動だったかもしれない。最初は正義を掲げた清新な潮流から出発していたとしても、結局、ヒッピーにはみずからを律する信条もなく、「反」何とかを掲げるだけだからである。コミューンたるものが気分的な仲良し会に堕してしまうのは目に見えている。当時は公民権運動も暗礁に乗り上げ、時代は混迷していた。そんな社会の縮図をディランはバビロン崩落に見たのか。おそらくは多義的に解釈されることを楽しんでいるだろうが。

聖書の引用はB面4曲「悪意の使者」にも垣間見える。引用されるのは「サムエル記」の司祭エリである。何かを伝える者がメッセンジャーだとしたら、預言者であれ、アーディストであれ、悪意の使者となりうるのかもしれない。

A第5曲「フランキー・リーとジュダス・プリーストのバラッド」は、珍しく、やや直接的に「人は自分のいる場所にいること」という教訓が歌われる。B面1曲目「拝啓地主様」では、お互いに搾取することなく、支配することなく、きめつけることのないようにという「関係の自由」が主題のようだ。B面第2曲「おれはさびしいホーボー」も教訓的かもしれない。落ちぶれた路上生活者が「自分自身の判断力をもて」というのである。これらはどうしてもフォークからロックへのディランの転向体験を想い起こさせる。

メロディアスなワルツ「あわれな移民」は人気曲でもある。弱者への眼差しは「移民」へ向けられてるが、虐げられたどんな存在にも交換可能だろう。

多義性は霧散して

『ジョン・ウェズリー・ハーディング』では詩の幻想の霧はいくぶん晴れたと書いたが、最後の2曲では一気に消え去ったようだ。「入り江に沿って」の歌詞の解釈に悩む必要はないだろう。入り江に沿ってやってくるのは「真実の愛」だというのである。次のヴァースでは「わたしのかわいい赤ちゃん」が登場する。そこで思い浮かぶのが、バイク事故のすぐ後にうまれた第一子である。明らかに世界に向けられていた眼差しが、出産を契機に、うち、内、家、個人的世界へと転じたことが感じられる。

サウンドとしてはブルース・コードだが、軽快に、ポップに仕上げられている。ピアノが加わり、さらにスティール・ギターがカントリー・アンド・ウエスタン風の味も添えている。最後にこう歌われる。

みんながわたしたちを眺めながら 通りすぎる
わたしたちが愛しあってるを知っているんだ
そして理解しているんだ

アイデンティティの危機など微塵もない。「わたしという個人」と「家族のなかのわたし」と「世界が見ているわたし」に何の齟齬も軋轢もない。愛においてすべてが協和しているのである。

そして最後の「アイル・ビー・ユア・ベイビー・トゥナイト」に説明は要らない。この曲だけ、明確に、ポップスで常套的なサビがある。ブルース色は一掃された。スィテール・ギターもいっそうフィーチャーされ、カントリー色を強くする。そしてあっけらかんと?「愛」を歌うのである。

しかしこれが売れ線狙いの変身だとは思わない。商業的な成功のために魂を売ったとは決して思わない。なぜならこれまで見たように、ボブ・ディランほど自分に厳しい魂の求道者はいないからである。では、何がディランの中で起きたのだろうか。