よろこびがきわまって悲しみに―シューマン 『詩人の恋』第4曲「きみの瞳を見つめると」
「明るい」長三和音(メジャー・コード)と「暗い」短三和音(マイナー・コード)といういい方がされる。特に異論はないだろう。短三和音の方が長三和音より暗いと感じる人は例外的だろう。だがこれはどうか。短三和音より「もっと暗い」和音がある。減七の和音である。D音をルートとして、長三和音、短三和音、減七の和音を示す。
減七の和音は根音の短3度上の音を3つ重ねた構成音で、コード・ネイムでは「ディミニッシュ・セヴンス」と呼ばれる。もっとも有名な使用例はバッハ『マタイ受難曲』の「バラバ!」だろう。イエスかバラバのどちらを釈放すべきかと尋ねたピラトに、猛り狂った群衆が叫ぶ、あまりにも戦慄的でドラマティックな場面である。
バロック期に減七の和音は激しい感情表出や謎めいた雰囲気を醸し出す和音として用いられた。古典派は特にこの和音の多様な機能を活用した。そしてシューマンは減七の和音に新しい可能性を開拓したかに見える。
心を表現するハーモニー
たとえば連作歌曲集『詩人の恋』の第4曲「きみの瞳を見つめると」での用法は、シューマンの芸術の真髄に直結するだろう。ハイネの詩の日本語訳は以下のとおり。
きみの瞳を見つめると あらゆる苦しみは消え去り
きみにキスすると 活力がよみがえる
きみの胸に寄りかかると 天上のよろこび
でもきみが「愛している」というと 苦い涙が流れる
詩は「~すると」という条件と、その結果「どうなる」という反応が4回並置されている。まず最初の行は次のようになる。
「苦しみは消える」という歌詞内容から短調の選択はありえず、曲はト長調の安定した響きで始まる。和声進行は半終止へ向かうごく普通の進行である。特別なことは何もない。半終止Ⅴは次の行を呼び込む待機状態にある。
2行目はト長調のⅠではなく、Ⅱの和音、つまりイ短調のように入ってくる。だがこれは次のヘ長調への3度転調の伏線だった。音楽的には緊張から弛緩へ、暗から明への方向転換である。転調とともに音楽はやわらかく膨らみ、光の中でゆったりと抱擁されるようだ。最後はハ長調のカデンツがきっちりとフレーズを締める。
これが「キスすると、活力がよみがえる」という歌詞の音楽的表現である。このように、歌詞の表現を担うのは、ほかならぬハーモニーや調性の移ろいなのである。いわば和音が主人公の心の状態を映し出すのである。
そして、感きわまって
だが「天上のよろこび」を歌う3行目はどうか。明るいハ長調の響きから入るものの、音楽が図らずも心の不安を暴くかのようだ。
ここで支配的な和音H・Dis・Fis はロ長調の和音ではない*。ト長調の平行調であるホ短調のドミナントⅤなのであり、トニックⅠへの解決待ち状態となるのである。
*われわれの感覚は理論的でもある。H・Dis・Fisは長三和音で、ロ長調のトニックⅠだが、この文脈ではそうは聞こえない。なぜなら♯×5のロ長調は♯×1のト長調からあまりにも遠く、耳はそれを♯×1の、すなわち近親調であるホ短調の和音として聞くからである。ホ短調でH・Dis・FisはドミナントⅤとなる。耳は習慣的にそのような響きで聞くのである。
ホ短調はいうまでもなく「暗い」短調である。心が暗いものを予感し、それを待ち続ける状態は不安とならざるをえない。歌詞にある「天国のよろこび」は決して甘美できらきらしたうれしさどころではなかった。音楽は切ないおののきとなる。
予感は現実となり、ホ短調から第4行が始まる。「それでも、きみがいうと」と、ふるえるように歌い出される。驚くべきは「いう sprichst」で響く減七の和音である(譜例 青)。きわめてシューマン的な書き方というしかない。もっとも暗い、深刻な響きが立ちこめる。構成音D・F・Gis・H は冒頭で例示した減七の和音と同じある。
彼女がいったのは「あなたを愛している」という言葉だった。「愛している liebe」で C と H が半音でぶつかり、軋むような不協和な響きとさえなる。愛は痛みでもある。そして主人公は「苦々しい涙を流す」。しかし減七の和音が向かうのは安定的なト長調へのカデンツであり、強固に終止する。
不安の頂点は彼女の「愛している」にあり、それを減七の和音が彩っていた。だが主人公の涙にもかかわらず、不安は完全に解消される。涙によろこびがにじむかのようだ。後奏ではピアノでアーメン終止(Ⅳ→Ⅰ)が繰り返され、音楽は宗教的な安らぎに消えていく。
よろこびと悲しみの一体化
ハイネの詩は単純ならざるものがある。4つの条件に対して1行目は「苦しみが消え」2行目は「活力がよみがえり」3行目は「天国のよろこび」という肯定的・積極的な反応があった。しかし、どうしたことか、4行目の彼女の愛の言葉に対しては「苦い涙」を流すというひねりが加えられるのである。。
しかしこの涙は否定的な反応ではありえない。いわばうれしさがきわまり、通常のレヴェルを振り切った結果なのであり、自分でも予想もしなかった感情が溢れ出たのである。普通の悲しみの涙と、普通でない感きわまった喜びの涙は、外見上・物理的には同じかもしれない。そこにハイネ的なちょっとしたアイロニーが漂うかもしれない。だが心理的には真逆なのであり、感情の深層への裂け目となるのである。。
シューマンはこの「感きわまった喜び」の表現としてもっとも暗い減七の和音を使った。注目したいのはあの4行で、最初の3行の条件における行為の主体は「ぼく」である。それに対して、最後の4行目だけが、主語は「きみ」なのである。凍てつくようなわななきの中できみが発した言葉 Ich liebe dich の響きは、度を超えた喜びを内包していたのだったが、最初はそれが何だかわからなかったようでもある。減七の和音は機能的には多義性を秘めている。ただ確かなのは、彼女の言葉はわたしを根底から揺り動かしたということである。
長三和音の「明るい」短三和音の「暗い」はまた「よろこび」「悲しみ」の表現に結びつけられたりもする。しかし度を超したよろこびの表現はどうか。シューマンはそれを表現するのに「もっとも暗い」減七の和音を使ったのである。なぜか。喜びがきわまった時、心はもはや明るくはないからである。むしろかつてない闇がわたしを襲うかのように。
彼女がぼくを愛してくれるということは法外の喜びだった。だが同時に、それを失うということは、もはやわたしの存在を危うくするほどのものとなる。だからこそ、彼女の愛はわたしを有頂天にさせるだけはなかった。わたしを震撼させ、天国と地獄を同時に垣間見させるものでもあっただろう。その時、相反するような感情が同居するだけではない。「よろこび」と「悲しみ」という感情そのものが「それらがどのようなものか」自分の中で定立したのだろう。シューマンはそれを減七の和音で表現したのだった。
この「泣き笑い」が共有できた時、シューマンが「わかる」のかもしれない。