楽園を飛び出して―椎名林檎「正しい街」

日本のロック史に燦然と輝くアルバムとして、椎名林檎の『無罪モラトリアム』を逸することはできないだろう。わが国におけるロックの起源についてはいろんな議論があるに違いないし、そもそも日本語でロックは可能か?といわれたりもする。さまざまなアーティストが輩出してきたのも事実だ。だが椎名林檎のあの1999年のデビュー・アルバムは、日本のロックにとっての決定的な一歩だったように見える。

そして、椎名林檎ワールドの出発点となるのが、冒頭を飾る「正しい街」である。

ヴォーカルのエネルギーはすさまじく、うねるようなバックの演奏もハンパじゃない。パンクの影響があることは、アルバム中の1曲「ここで愛して」の歌詞にセックス・ピストルズの伝説のベーシスト、シド・ヴィシャスの名があることでも明らかである。

しかしパンクにありがちな弛く、荒削りな音楽ではない。ヴァースは2番までで、後半はリフレイン風だが毎回歌詞が変わり、同主調へ転調する。そしてサビがきっちりと構成され、さらに全体の最初と最後をリフレインの1行が枠のように締める(構成において「正しい街」とアルバム中の「ここで愛して」は対をなす)。

正統的で精緻な音楽づくりが基礎になっていることは、演奏が鉄壁の技量とセンスに支えられているのと同じである。だがここでは特に歌詞に注目したい。

故郷での苦い再会

椎名林檎作詞・作曲の「正しい街」の詩は以下のとおり。

あの日飛び出した 此の街と君が正しかったのにね(rf.)

不愉快な笑みを向け 長い沈黙の後 態度を更に悪くしたら
冷たいアスファルトに 額を擦らせて 期待はずれのあたしを攻めた
君が周りを無くした あたしはそれを無視した(ver.1)

さよならを告げた あの日の唇が一年後
どういう気持ちで いまあたしにキスをしてくれたのかな(rf.1)

短い嘘を繋げ 赤いものに替えて 疎外されゆく本音を伏せた
足らない言葉よりも 近い距離を好み 理解出来ていた様に思うが
君に涙を教えた あたしはそれも無視した(ver.2)

可愛いひとなら 捨てる程いるなんて云うくせに
どうして未だに 君の横には誰一人居ないのかな(rf.2)

何て大それたことを夢見てしまったんだろう
あんな傲慢な類の愛を押し付けたり
都会では冬の匂いも正しくもない
百道浜も君も室見川もない(mid.)

もう我が儘など 云えないことは 分かっているから
明日の空港に 最後でも来てなんて とても云えない
忠告は全て いま罰として現実になった(rf.3)

あの日飛び出した 此の街と君が正しかったのにね(rf.)

漢字を多用した詩は「昭和感」を漂わせるようだが、音楽上の扱いは一筋縄ではいかない。詩がドミノ倒しのように次々と飛び出してくるのは、フレーズが文節を寸断したり、越えたりして、シンコペーションで前倒しになるからである。1行目は、ふゆ「かーい」な笑みをむ、けな「がーい」沈黙の、あと「たーい」どをさらに悪くしたら……という風に、意味上の文節は破壊される。その理由は「かーい」「がーい」「たーい」という引き延ばされた母音「ア」と「い」の頭韻を踏むためである。こうして短いフレーズの連なりが、折り重なるように、連鎖反応を惹き起こす。

ちなみに2行目は、つめ「たーい」アスファルト、にひ「たーい」を擦ら、せき「たーい」はずれの……となる。

で、何を歌っているのか。詩の解釈以前に意味の解析が必要だろう。ポピュラー音楽でよくあるように、のっけから聴き手は状況のただ中に投げ込まれる。そしてだんだんわかってくるのである。都会へ出た彼女がしばらくたって、故郷に帰り、元カレと再開した時の話なのだと。最初からいこう。

久しぶりに君と会った。ぎこちない二人の間には気まずい沈黙が。すると君は土下座でもしたのか(「アスファルトに額を擦らせ」)。「あたしを攻めた」とあるが、「帰ってきてくれ」とでもぶちまけたのかもしれない。いずれにしても、周りに人がいることなどお構いなしに、感情を暴走させた。キスも空しい。

嘘を連発し(赤いもの=真っ赤な嘘?)、本心からどんどん遠ざかった。身体はくっつけていたが、心はどんどん離れた。ついにあたしのために君が泣くはめに。でもあたしは見て見ぬふり。故郷を出る時に「女ならいくらでもいる」と息巻いていたけど、君には誰もいないのね。

二人の境遇が変わっても変わらぬ愛を期待したあたしは何て傲慢だったのだろう。わたしはまるで違う世界へ行ってしまったのに。

二人の関係は決定的になった。明日、発つあたしを空港まで見送りに来て、なんてとてもいえない。結局、再会は別れとなっただけだった。


椎名林檎は埼玉県生まれで、小学校6年から福岡で育った。百道浜と室見川も福岡の地名である。1997年、19歳でデビューを決意した時、上京した彼女だったが、その後「正しい街」と似たようなことが起きたのかもしれない。

限定された「正しさ」

歌われていることはよくわかる。しかし「正しい」とはどういう意味だろうか? おそらくはここに曲を解釈する鍵がある。「正しい」は普遍的真理とか数学的正解ではなく、「街」で限定されている。つまり「正しくない街」もあるかもしれないし、あっていい。場所で限定された正しさとは何か。

ここで思い浮かぶのが『旧約聖書』の創世記、アダムとイヴが棲むべく与えられたエデンの園である。そこは楽園だった。ただし楽園たるには条件があった。「善悪を知る木の実を食べてはならない」という神の掟である。もしこの掟を破ったら、アダムとイヴは園から追放される。つまり、ほかではともかく、神の命令が絶対の場所があるということである。エデンの園においては神の掟が「正しい」のである。

たとえばエデンの園をわれわれが生まれ育った故郷に置き換えてみよう。そこではさまざまな人間関係のネットワークが張り巡らされている。わたしが身を置く家庭を中心に、近所の人々、学校の友だちや先生、親や兄弟の知り合い、等々……。そうした関係性の中をわれわれは生きており、どこの誰かを知っている人の目にわたしは常にさらされているのである。だから、歌詞にあるように、元カレがキレて、一線を越えた時「君が周りを無くした」といわれる。

そうしたしがらみが絡みつく共同体にあっては、おのずと「こうあるべき」という良識やマナーがある。われわれが当然従うべきルールがある。時にはわずらわしく感じられる暗黙の約束事である。まさにその社会の「正しさ」なのである。

故郷は「正しい」のである。そしてそれはわれわれの人間としての平衡感覚の基準になるのだろうし、正しくあり続けるだろう。そこに従順にとどまるかぎり、故郷は楽園だろう。しかし、唯一無二の絶対で、永遠の正しさというのともちょっと違う。

故郷のしがらみの何たるかが実感できるのは、育った環境から飛び出した時である。都会では人間は共同体から切り離された個となる。だからみんな好き勝手に生きていい。周りの目を気にする必要もない。隣の人は誰かもわからないし、わかる必要もない。昼夜逆転した生活をおくり、真夜中にコンビニに行っても全然OK。電車の中でお化粧しても構わない。「ここでキスして」の主人公のように、恋人とどこででもいちゃついてもいい。周りはみんな他人なのだから。

しかし責任は自分に跳ね返ってくる。代償として「額に汗して」みずからの足で立ち、自己を律しなければならない。エデンの園を追放されたアダムとイヴのように、である。

「正しい街」で再会を果たした元カレとは、故郷、あるいは自分が育った共同体の象徴だったのかもしれない。そこには正しい「冬の匂い」があり、ともに育った百道浜も室見川もわたしを見守っていてくれる。もしそこでの掟を守り、元の鞘におさまり、穏やかにすごしたら、「こうして二人は幸せに暮らしたとさ」というめでたしめでたしのお話になっただろう。しかしそうはならなかった。

覚醒の歌

お気づきのように、エデンの園のお話は、一方では、人の成長と覚醒の寓話でもある。つまりわれわれはいやおうなくある環境の中で生を受けるが、そこで無数のバイアスの網の中を生きることになる。地域性や歴史性に根ざす習慣から、神ならぬ親の命令に至るまで、ある価値観を植えつけられるのである。それらは永劫の普遍妥当性をもつというよりは、その社会での常識としての正しさの束なのだった。われわれの生はこの正しさを見よう見真似で自分のものとすることから始めるのである。

しかしある時、そこに疑いが生じる時が来るだろう。社会の因習や学校の規則、あるいは親の命令に反発する自己に気づくだろう。反発とまではいかなくても、「わたしはちょっと違う」という感覚に目覚めることがある。自分で判断する段階を迎えること、それを『旧約聖書』では「善悪を知る木の実を食べる」といういい方をした。今や「正しさ」は外からの強制ではなく、善悪を「知る」ことから発する内なる声となる。

故郷とはわたしが不在の「正しい」世界を表すとしたら、都会とは自分がみずから考え、行動する世界の象徴となる。

自己に目覚めるというのは、ほかならぬ自己でないもの=「他」との違いに気づくことである。いったん気づいたものを消去することなどできない。ハード・ディスクじゃあるまいし。目を閉じれば、目覚める前に戻れるというものではなく、覚醒に後戻りはありえない。「正しい街」は目覚めの歌なのだが、それは必然的に古い自己との訣別となるのである。

ロックという音楽が反逆児の叫びだとしたら、椎名林檎のキャリアの起点として「正しい街」ほどふさわしい曲はなかっただろう。デビュー後の八面六臂の活躍は、楽園から飛び出したその後の軌跡なのである。「善悪を知る木の実」=林檎を食べてしまった者しかなしえない奇跡だっただろう。