シューマンをインタープリテイト(解釈・演奏)する―ホロヴィッツの『クライスレリアーナ』
「この曲はこういう音楽なんだ」という確信を迫る演奏がたまにある。いわば決定盤との出会いなのだが、それが曲を初めて聴いた時と重なることもある。わたしの場合、ホロヴィッツが演奏したシューマン『クライスレリアーナ』だった。
憑依するフロレスタンの飛翔の高さと、沈潜するオイゼビウスの夢幻の深さが奇跡的に焦点を結び、シューマンの実像を鮮やかに映し出す。真実は狂気と化し、狂気は真実を帯びる。まるでシューマンが乗り移ったような演奏に聴こえた。
まずは聴いていただこう。ホロヴィッツの『クライスレリアーナ』(1968年録音)で、もっとも心に沁みるところである。第2曲後半のテンポ・プリモ(130小節目)から。
ここはABAC→Aの構造におけるCとAを繋ぐ「→」の部分である。オイゼビウス的Aの夢想を断ち切るように、フロレスタンがBCで衝動的に現れる。いわゆるロンド形式であるが、BからCへは狂気の振幅が増大するように書かれており、Cの最後で自己破滅にまで突き進むようだ。そこからAに回帰するブリッジ=架け橋なのである。
ホロヴィッツの演奏は絶望の淵から慰めに至る心の軌跡を痛切に描き出す。
ホロヴィッツはどう弾いたか
ある楽想を思いつくのだけが作曲ではない こういうブリッジをいかに仕上げるかが作曲家の真価ともいえる。ただの繋ぎではない。音楽的文脈に適合しているのはいうまでもなく、到達点たる目的地より目立ってはならないが、みずからの音楽的質を低下させてもならない。難しい課題である。ベートーヴェンがすごかったのはまさにここなのである。『クライスレリアーナ』のこの部分はシューマンの真骨頂ともいえる。
ホロヴィッツの録音は素晴らしい解釈・演奏ではないか。これぞシューマン!と思わせる。ただ楽譜を見ながら聴くと、「あれ?」と思わざるをえない。
確認しておこう。テンポ・プリモ冒頭は苦渋の泥沼をはいずりまわるように3声のポリフォニーを奏で、8小節後に複縦線が引かれる(第128小節)。そして手探りで何かを求める蠢(うごめ)きが始まる。ブリッジの中のブリッジのような部分である。もう一度その部分の楽譜を引用し、そこでのダイナミックス記号を小節数とともに下に抽出する。そしてホロヴィッツがそれをどう弾いたかを示す。
ピアノから始まるのは指示どおりだが、131小節の mf をホロヴィッツは pp で、そして135小節目の p を mf のように弾いているのである。上のシューマンの楽譜と下の演奏を比較あれ。ホロヴィッツは楽譜を無視した?
しかしあの pp に魂がふるえる。 もう一度、上の箇所を同じ演奏で確認する。
シューマンの意図を読む
演奏をどうのこうのいう前に、楽譜からシューマンの意図を読みとってみようではないか。
もともとこの部分はエンハーモニック転調として有名な箇所である。曲の調は♭2の変ロ長調なのに、何と♯6の嬰ヘ長調まで行く。これを嬰へFis =変トGes と読み代えて、あっという間に変ト長調の♭6の譜面へと変貌する。しかし、これでしめたもので、変ト長調は3度転調で変ロ長調へ直結できる。「どこかへ迷い込んでしまったのに、気がついたらもとの場所にいた」的効果である。。シューマンの構想は明快である。そこでしつこいようだが、もう一度楽譜を引用する。
今度は調性を記しておく。すると曲の構造がよくわかる。なお確定されない調は( )でくくる。
ハ短調cから出発して、d→e→fisと2度上昇するのは、まさに何かを求める手探り状態であり「繋ぎ」的である。ダイナミックスは指示されていないが、徐々にクレッシェンドする構想である。そして不意に嬰ヘ長調Fisに到達する。嬰ヘ短調の闇から嬰ヘ長調の光への転調。mf はまさに到達を表す。しかし、mf はそのままで、最後にクレッシェンドが指示される。
要するに、最初から135小節までの7小節の長いクレッシェンドが想定されているということである。mf はその中間点の「踊り場」だった。
ちなみに出だしのpは、もちろん「小さい」音を指示しているが、ここでの構想から「長いクレッシェンドの起点」といった意味が読みとれる。だから先を見越して息を潜めた音量とニュアンスということになる。
mf の指示に関しては、クレッシェンドの真の到達点なら、「f」だっただろう。だがあくまでも中継点ということで 、つまり余力を残した大きさという意味で「 メゾ」f が想定されたのだろう。
シューマン的なのは最後のpである。長いクレッシェンドの真の到達点、すなわちクライマックスはそこのはずだった。だからfにしてもよかったのである。事実、ベートーヴェンならそうしたかもしれない。しかしシューマンは違った。クライマックスは「小声で」というシューマンの美学が垣間見える。
だが、同時に、構造的な解釈も可能である。136小節目におけるAの変ロ長調での回帰はまだ本当の再現ではない。クレッシェンドの到達点ではあるが、最終的な目的地ではない。それはこの後やって来る。136小節もまだ通過点にすぎない。だからバスには属音Fが置かれ、解決しないのである。
ちなみにシューマンの楽譜がそのまま聞こえてくるような演奏は多くない。その中で比較的忠実なのはキーシンだろう。
創造的解釈?
シューマンの書法の「自然」とダイナミックス記号の「指示」は一致しているように見える。乖離があるとしたら、クレッシェンドの終点におけるpの指示だったろうが、これも表現として、あるいは構造上の必然として理解できる。
ところがホロヴィッツの解釈では、長いクレッシェンドという、この部分全体の構想は崩れ去ってしまう。なぜなら漸次的な高まりの途中で唐突に pp が出現するからである。
ところで、楽譜に忠実でない演奏を悪と断じる気はない。「忠実でない」こと自体ではなく、その成果を問題にしたい。だからこう考えたい。ホロヴィッツは「構造」よりも「表現」を重んじた芸術家なのだと。
さらにこうもいえる。すべてのピアニストが楽譜を徹底的に読み込んでいるかどうかは別として、おそらくはシューマンの意図どうりに響く演奏はそれほど多くないように思える。それには理由がある。指示と書法は常に一致するとは限らないからである。
もう一度楽譜に帰って、mf の嬰ヘ長調の部分(132小節目)と、最後のpの変ロ長調の部分(136小節)の書法を見比べていただきたい。前者は音域が高く、テクスチュアも比較的薄い。後者はその逆である。つまり指示なしでそのまま弾いたら、必然的に、mf の前者の方は小さく、pの後者の方が大きく響くはずなのである。
シューマンの意図を生かそうとするなら、音楽の「自然」に反するように弾かなければならないことがある。だからこそ何が望まれているかを理解した上で指示は読まれるべきなのである。要求される意図と書法が必ずしも一致しないことは、シューマンではままある。
ホロヴィッツはどう感じたのか。彼について「表現を重んじる芸術家」だといった。もう一言いうなら、この芸術家は何よりもピアニストだった。突然ひらめく嬰ヘ長調のメロディーは、ピアノの研ぎ澄まされたピアニッシモでのみ、後光を帯びるだろうからである。
確かに、ホロヴィッツの演奏で聴くと、闇の中で出口を求めてさまようただ中に一条の光が射し込むようだ。出口が見える。救済への道がそこから拓かれる。つまりホロヴィッツの解釈はシューマンがここでやろうとしたことを具現しているともいえないか。しかもシューマネスクとしかいいようのない感情を湛えて、である。作者の指示とは違うが、創造的な解釈とはいえないか。
シューマンは構造で考えたが、それは表現につながるからである。しかしホロヴィッツは表現から入って構造をとらえたようにも見える。ここでいう構造とは純音楽的というより「闇に浮かぶ光」という文学的ともいえるイメージなのだろう。
それにしても、「光」とはまさに「クララ」である。あの絶望の淵におけるさまよいの中で響いたメロディとは、クララだったかもしれない。『クライスレリアーナ』は結婚を勝ちとる闘争のもっとも苦しい時期に書かれたとシューマンは書いている。
一方、クララはこの部分について、聴衆が理解できないから、もっとやさしく書いて欲しいといったとか。シューマンの音楽の魂のような部分ではないか。だからこそこんな細部にこだわる分析にも意味があると思うのだが。
なおホロヴィッツの『クライスレリアーナ』には後年のライヴ盤(1986年)もある。同じ傾向の解釈ではあるが、あの奔放さ、エッジの立った鋭さはないようだ。今回、分析した部分も同じで、おそらくは「楽譜に忠実」という言葉が頭のどこかにひっかかっていたのではないか。