重荷なら下ろしていいんだぜ、あるいは善行とは?―ザ・バンド「ザ・ウエイト」
YouTube を見ていると、さまざまな発見がある。この前、たまたま「洋楽大学 YogakuDaigaku-ザ・バンド/ザ・ウエイトはこんな意味だった?」という動画を見た。オーストラリア人のピーター・ジョセフヘッド氏による、日本語での、弾き語りつき解説である。とても面白かった。
待てよ、以前、わたしも似たようなものを書いていなかったか? パソコンのドキュメントの中を調べてみたら、あった。「ポピュラー音楽の名曲」と題したカワイ楽器が発行する雑誌の連載の第12回、2012年の論稿だった。
ああ、そうだったか。読み返すと、YouTube のチャンネルとの接点を見い出し、さらにそこからインスパイアーされた自分がいた。だから、かつての議論を出発点にして、加筆し、さらに深めてみよう。
何といってもバンドの「ウエイト」はきわめて独自なロックでありながら、ジャンルを超えた普遍的な音楽だからである。
ザ・バンドの世界
1968年7月、ヒッピーの運動が吹き荒れていたころ、1枚のアルバムが世に出た。ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』である。サイケデリック全盛の当時の極彩色で刺激的なロックとはかけ離れた、おそろしく地味なサウンドだった。しかし、よく耳を傾けると、底光りするような何かがそこにあった。
1曲目の「怒りの涙」(作詞 ボブ・ディラン)は、親を捨てて、家を出ようとする娘への、怒りとも悲しみともつかない父親の訴えである。曲のテーマは親離れ・子離れという人生の宿命へと一般化することができるかもしれない。
しかし、この詩を理解するには、60年代後半のヒッピーの世界を背景としなければならない。親子の縁を切って、気の合った仲間とコミューンを形成しようというする時代の風潮である。われわれはこの脱社会的な運動が一時的な流行であったことを知っている。作曲者であるリチャード・マニュエルの絞り出すようなヴォーカルがせつせつと歌うのは、もっと根本的な人間の絆のありようである。
オリジナルではないが、アルバム7曲「ロング・ブラック・ベール」(作詞 M.ウィルキン、作曲 D.ディル)では、ある死刑囚のことが歌われる。殺人事件があった時、彼は親友の奥さんとベッドの中にいた。そのことを明かせば、アリバイが成立し、無罪放免になる。しかし、それは許されない。
彼女も真実を話してはならない。ただわたしが処刑されたら、「長い黒(ロング・ブラツク)のベール」をはおって、墓の前で泣いて欲しい……。人間の弱さ、不完全さ。だが起きてしまった事態に対して、周囲を巻き込んで、自己保存に走ってはならない。ダメ人間でも守るべき一線がある。
いつも謎のようなザ・バンドの歌詞だが、第6曲「ウィ・キャン・トーク」は、ヒッピー・ムーヴメントへの批判が比較的容易に読みとれるかもしれない。「南(ヒッピーの聖地カリフォルニア?)で凍えるよりは、カナダで焼け死ぬさ」「永遠に畑を耕そう」「ちょっと休んで、頭を冷やそう」「さあよく話し合おう」。
「時代は変わる」。ヒッピーたちは伝統や習慣などを超えた理想を目指した。だが実は個人の恣意性の氾濫、ただの「やりたい放題」ではなかったのか。そこにカウンター・カルチャーの脆弱性がないか。ザ・バンドはそれを見逃さない。
彼らの音楽が見つめるのは、どっしりと大地に根を下ろした価値観なのである。一過性に流されない人間の「あるべき」が問われているのである。ヒッピー・ムーヴメント全盛のただ中に、時流に真っ向から反するアルバムが生み落されたことは驚異でしかない。
ザ・ウエイト
そこでアルバム第5曲(LPではA面最後)の「ザ・ウエイト」である。作詞・作曲はロビー・ロバートソン。「ザ・ウエイト」の詩は特に超難解として知られる。読み解くための重要なヒントが作者の言葉にあるという。
ロビー・ロバートソンが触発されたのは、スペインの映画監督ブニュエルの作品だった。人に宗教的・道徳的な行いを促すのは、「神が報いをかなえてくださる」というある種の願望・希望だろう。ところが、映画では、どんなに善行を施しても、容赦ない禍がふりかかる。人生は過酷である。それが現実である。
だから「聖人になること、善き人であろうとすることは不可能である。『ザ・ウエイト』もそれと同じさ」と、ロビー・ロバートソンはいう。
曲の構成は歌詞が変わるヴァースV、歌詞が変わらないリフレインRとすると、V1R-V2R-V3R-V4R-V5となる(数字は歌詞の変化)。つまり、クラシック的ないい方だと、リフレイン付きの有節構造ということになる。Rはコーラス的な部分ともいえ、ソロ、あるいは二重唱のVが、全員の声が積み重なるリフレインに流れ込むのである。Rの不変の歌詞はこうなる。
重荷を下ろせ ファニー
重荷を下ろせ 見返りはいらない
重荷を下ろせ ファニー
しっかりおれにまかせろ
Take a load off,Fanny
Take a load for free
Take a load off,Fanny
And you put the load right on me
ファニーはニューヨークの書店の創業者で、知的な集いの中心人物であもったという(ジョセフヘッド氏の動画に写真がある)。彼女はブニュエルを研究しており、ロビー・ロバートソンはファニーを通して映画を知ったようだ。
曲が始まるとすぐに聖書でお馴染みの言葉「ナザレ」が現れる。聖母マリアの生地でキリストが青少年期をすごした地だが、ロビー・ロバートソンによると、マーティン・ギターの生産地だとか。ほかには『ルカの福音書』の「ルカ」が登場するなど、聖書の世界に足を踏み入れたようだ。十戒の「モーゼ」は若い女性という設定、さらによくわからない人物「カルメン」「アナ・リー」「チェスター」、それに「悪魔」が、脈略もなくちりばめられている。
これらの有象無象の織り混ぜをひとつひとつ解釈していたら、迷路に迷い込むだけかもしれない。むしろ上述したYouTubeのチャンネルのすぐれた解説に委ねよう(歌詞の解説は12分50秒あたりから)。
そこで、ここでは詩の骨格を整理しておこう。ファニーの重荷を背負って「おれ」の旅が始まる。その起点はナザレだったか。ナザレからキリストが世界へ旅立ったことが想い起こされる。そして最後のヴァース5で再びファニーのもとに還るのである。
旅の途上で出会ったさまざまな人生模様が繰り広げられる。つまり善行という重荷を背負った「おれ」が見たシュールな現実が「ザ・ウエイト」だったのか。
「善き人」?のその後はどうなったのか。
現代の賛美歌
ザ・バンドの5人のメンバーのうち、4人までがカナダ出身である。しかし彼らの音楽ほどアメリカの「土」を感じさせるサウンドはないだろう。唯一無二の音楽といわなければならない。きらびやかさや派手さとは無縁の、地を這うような重厚な響き。とくにピアノとオルガンという2つのキーボードが醸し出すサウンドは、黒人教会から溢れる賛美歌のようである。
またブリティッシュ・ロックの精緻なアンサンブルとは対極にある、ラフでルーズな感覚。4人のボーカリストのコーラスなどまるでバラバラである。彼らは合わせようとはしていない。ただ「音楽しよう」としているだけのようだ。だがそれぞれが独立していながら、濃密に絡み合い、調和するという、ザ・バンド独自の世界がそこから立ち現れる。これこそ究極のアンサンブルではないか。
「ザ・ウエイト」のヴァースのコード進行は、キーをGとすると、G→Bm→C→Gと単純である。ドミナントのDがない。むしろC(サブドミンナント)→G(トニック)の変格終止が多用されているのである。「アーメン終止」と呼ばれる賛美歌の響きである。
ドミナントDはリフレインに現れるものの、西洋音楽で進行すべきトニックGへ解決しない。むしろ禁じられているサブドミナントCへ進んでいる(「弱進行」)。これこそブルース・ハーモニーのキメの進行にほかならない。アメリカ南部を想わせるザ・バンドの黒人的響きの起源のひとつはここにある。
さらに重要なのは形式である。「ザ・ウエイト」は、ヴァースとリフレインが交替するという有節形式だったが、ザ・バンドがもっとも好んだ形式といえる。この形はソロのヴァースは説教師、それに答えるリフレインのコーラスは会衆に置き換えられる。つまり黒人教会での歌唱の形式を想わせる。
こうして「ザ・ウエイト」のサウンドの宗教性とアメリカ的なものの理由がわかる。そしてドミナント進行より緩い終止を多用するがゆえに、包容力のある広がりが生まれる。「ザ・ウエイト」はアメリカの大地にしっかりと根づいた現代の賛美歌のように響くのである。
それにしても、社会が揺らいでいるまさにそのただ中に、「本質に立ち返れ」と歌うロックが現れるとは、アメリカ文化の奥深さを思わずにはいられない。「自由なアメリカ」の自浄能力の凄さとでもいうべきか。
そんなザ・バンドの音楽がビートルズ後期のゲット・バック志向に影響を与えたのはあまりにも有名である。しかし「立ち返る(ゲツト・バツク)」は未来へ向かうことでもある。
善行とは
こうして「ザ・ウエイト」の「重荷」とは善行であり、「善人であること」「善を施すこと」の不可能性が歌われているといわれる。
というのも、善き行いをしたとしても、何らかの見返りがあるわけではないからである。どんな善行といえども、禍を遠ざけるどころか、かえって困難を惹き起こしさえするかもしれない。キリストがその最たる例ではないか。
2024年1月にこれを書いているが、わたしの故郷、石川県を中心に大地震が襲った(令和6年能登半島地震)。胸が痛む毎日である。TVに映し出された被災者が「何でわたしがこんな目に遭わなきゃならないのか」と涙をにじませていた。彼は善人そうに見えた。
善行が幸福を呼ぶとか、善行で世界がよくなるとかいうことにはならない。だから「善い行い」など重荷にすぎない。そんなの「無理」だ。ここで宗教的・道徳的な基盤が危うくなりかける。
しかし何かすっきりしない。もし善行の不可能性、あるいはもっといえば、無価値性が「ザ・ウエイト」のテーマだとしたら、すでに垣間見たザ・バンドの世界にはしっくりこないからである。
ザ・バンドの音楽は堅固な世界観にどっしりと腰を据えていた。声高に主張するのではないが、流行や恣意的なバイアスになびくことのない、深い信念に基づいていた。そこに成り立つ世界は合理的というよりは、いわば義理人情的な性格を帯びていた。
ところが「善行は無理」という考え方を支えているのは「善い行いをすれば良い報いがある」という論理ではないか。「善いことをしたのに、悪い報い? そんなの無理」。これは合理主義そのものではないか。人は自分の利益になるから行動するということだ。だがザ・バンドの世界には馴染まない。
そもそも善行はある目的や利益のためになされるのか。善行が無価値だとしたら、それが何の得にもならないからか。これは善行そのものにさえ馴染まない発想ではないか。
善行=重荷という図式さえ「頭」でっかちすぎないか。そうすることで、たとえ損をしたとしても、「心」の中で何かほの温かいものが息づかないか。
あるいは、善行が重荷となるのは、神の命令に強制される苦痛からなのか。だが強制に従わなければならない善行など、果たして善行といえるのか。そんな重荷なら、さっさと肩から下ろすがいい。
何ら見返りを求めない善行があるとしたら、それは反知性的ともいえる行動だろう。ついついやってしまうというお馬鹿さんの行為だろう。だが人間にはそんな衝動がある。あるいはそんな止みがたい衝動を秘めた人間がいる。
「ザ・ウエイト」の詩は錯綜をきわめ、シュールな幻想世界を彷徨う。しかし音楽はシニカルでもおちゃらけてもいない。否定的でも、投げやりでもない。時には余裕とユーモアを湛えるようでさえあり、しかも懐深くも重厚な世界を立ち上げるのである。
そしてリフレインで「重荷を下ろせ、重荷はおれにまかせろ」と歌われる。確かに、それが重荷と感じる人間なら、身軽になるがいい。
重荷を引き受ける「おれ」は例のお馬鹿さんなのか。だとしたら「善行は不可能」というのは表面で、裏へさらに奥深く入り込むと、実は真逆のテーマが隠れているのかもしれない。
こうして「善行とは何か?」という迷宮に入り込むかのようだ。それが「ザ・ウエイト」の戦略だったのかもしれない。
「ザ・ウエイト」には何種類かの音源、動画があるが、わたしが最も好むのは『ロック・オヴ・エイジズ』(1972年)のライヴ盤である。なお最後に、近年(2019年)出た動画を上げておこう。ロビー・ロバートソンを中心に世界が繋がる。なおロビーは昨年2023年に亡くなった。冥福をお祈りいたします。彼こそはロックの聖人だった。