ピアノ曲から歌曲への大転換の謎―シューマン『詩人の恋』1

「ナイチンゲールのように、ぼくは歌い死にたいくらいだ」。クララと結婚した1840年、シューマン Robert Schumann(1810-56) からおびただしい歌曲が溢れ出た。約140曲にも及ぶという数は、彼が生涯で作曲した歌曲の半数以上にあたる。作品1から23までがすべてピアノ曲だったシューマンの音楽創作に、大転換が生じた。

その理由として、いくつかの説がある。1)結婚説、2)ロマン派芸術の未来としての歌曲への方向転換説、3)後のオペラ創作へのステップ説、等。1は結婚による愛のほとばしりを理由とする。しかし、ロマン派を彩るあまりにも有名なシューマンとクララの大恋愛は、当然、結婚前からすでに始まっていた。転換というからには、結婚前と後で愛は変わったのだろうか? 2と3については、シューマンの有頂天の作曲ぶりからすると、意識的すぎる志向のように見える。

理由を問う前に、大転換を可能とした「原因」を確認することはできる。ピアノ曲への集中的な作曲が、明らかに、爆発的な歌曲創作を可能とし、準備したと考えられるからである。歌曲とは声+ピアノの編成の音楽である。ピアノ・パートに習熟していたことは、当然、歌曲創作に多大な寄与をもたらすであろう。実際はそれ以上だった。シューマンがピアノ曲で到達していた精妙でポリフォニックな書法が、声と伴奏という関係をかつてない有機性・芸術性へと高めた。ピアノ・パートはもはやただの伴奏でさえない。歌を支え、協働し、時には雄弁に発言したりしながら声と一体となり、高度な融合体を形成するのである。さらに歌曲創作は思わぬ展望をも拓いた。

歌曲を作曲するにあたり、シューマンはまず詩に基づいて旋律を書いた。ピアノ曲におけるシューマンの旋律というと、典型的なのは「トロイメライ」だろうか、これは4小節のフレーズをひたすら繰り返すという音楽である。概してシューマンの旋律はフレーズが短い。彼の音楽的才能は、たとえばショパンのように、息の長い旋律を紡ぎ出す質のものではなかった。ところが旋律の案出に歌詞が絡んでくると、言葉がメロディを駆り立て、促すことになる。まさに同じ状況が生じたようだ。シューマンはそこでかつてない豊かな、自然発生的な旋律と出会ったのである。

それにしても「結婚説」を、もう一度、吟味する必要がある。上述したように、これは愛の変化?の問題なのか、それとも結婚したら歌になるという何か法則でもあるのか。ところが最近の研究では、最初の歌曲は結婚の年=「歌の年」でさえないと推測しているのである。シューマンは結婚以前に歌の世界に突入していたようだ。そこで二人の愛の足跡を、「シューマンの人生と音楽」の側面から確認しておこう。シューマンの音楽を理解するには、彼の人生を避けて通れないからである。

詳述は伝記などに任せることにして、ポイントを確認しよう。1835年のクララが演奏旅行に出発する前に交わされた「誓い」がここでの出発点となる。シューマン25歳、9歳年下のクララが16歳であった。翌年36年は「最悪の年」(シューマン)だったが、最高傑作が生まれた。二人の結婚に猛反対だったヴィークは、38年には、若干、軟化したように見えた。結婚には定収入が必要だということで、ウィーンでの出版の仕事が提案されさえした。シューマンはそれに従った(38年10月)。ところがロマンティックを地で行くようなシューマンには事務的な才能はないことをヴィークは見抜いており、ウィーン行きはある種の「罠」だったことが判明する。

激怒したクララがとった行動は、父親ヴィークを捨てることだった。翌39年1月、真冬に、単身、パリへ演奏旅行に発ったのである。手紙で見る限り、クララはシューマンよりよほどリアリストでもあったようだが、強い、信念の女性でもあった。

1838年のクララ

一報を聞いたシューマンが狂喜したことはいうまでもない。38年1月8日に次のような手紙を送った。

最愛の人よ! あなたのお手紙によって、ぼくがどんなに高められたか、いい表しようがありません。あなたと比較したら、ぼくは一体何なんだろう? ライプチヒを発つ時に、ぼくは最悪のことに足を踏み入れているのだと思っていました。それなのに、か弱くも若い娘の身で、ぼくのために大きな、危険な世界に、たった独りで乗り出そうとしているのです。あなたがこれほどまでにして下さったのですから、ぼくらの行方に、これ以上、障害があろうとは思えません。……英雄的な少女は、恋人をも英雄的にするのです……。

同じ頃、シューマンは最初の歌曲創作に向かった。1838年から39年の冬のウィーンの紙が使われているということで、作曲時期が明らかとなったのだった。ロバート・バーンズの詩に基づく「大意の妻 Hauptmanns Weib」である。

馬上高く打ちまたがり! か弱い身に鎧を着け
甲と剣 大尉の妻にはふさわしい

太鼓の音が響きわたる 砲煙をついて
きみの瞳に映るのは 流血の日と 戦場の愛しい人

敵を打ち負かすや 夫に口づけし
ともに暮らす 平和にひっそりと

どうしてこんな時に、マイナーなスコットランドの詩人のドイツ語訳詩に目を止め、曲を付けたのか。爆発的な歌曲創作の導火線となった曲が生まれたのは「歌の年」ではなかった。むしろ作曲の時点はクララのパリ出発と軌を一にしているではないか。

明らかに「英雄的な少女」と「大尉の妻」が、シューマンには二重写しに見えたのではなかったか。

二人はともに結婚を勝ち獲るための「戦場」にいる。そして行方には平和で幸福な未来が待っている。そうだ、もはや「障害」はなくなった。シューマンの中に湧き上がった幸福感と将来への確固たる希望が音楽に詩を、言葉を要求したのではなかったか。今や、抽象的な表現のピアノ曲ではなく、より具体的に思いを託することができる、歌曲でなければならなかった。