ソナタ形式に作曲者の心を推理する―ブラームス 交響曲第4番第1楽章

発端はあのメロディーが「降りてきた」ことだっただろう。

小節線をはさんだスラーで結びつけられた2音が、うなだれるように下行し、また憧れるように上行する。旋律線は休符で寸断され、嘆息をもらすかのよう。ブラームスはこの旋律の深く情緒的な性格を熟知しており、第1・第2ヴァイオリンのオクターヴ・ユニゾンに委ねた。こうしてしっとりとした、胸を締め付ける音色で旋律が歌われる。ブラームスの脳裏にあったのは、モーツァルトの『40番』だったかもしれない。彼は『40番』の自筆譜のスコアを所有していたという。

後出の冒頭のスコアを見るとわかるが、ヴィオラを分奏させていることからも、モーツァルトの影響がうかがえる。しかし『40番』ではヴィオラの下はバス声部(チェロとコントラバスのユニゾン)だけなのに対し、ブラームスはチェロにも分散和音をあて、コントラバスから独立させている。薄く、身軽なテクスチュアの『40番』がモルト・アレグロの疾走調を志向しているように見えるのに対し、『4番』の内声はより低く、より豊かとなる。まさに「速すぎないアレグロ Allegro non troppo」にふさわしい。モーツァルトは涙を振り切るが、ブラームスは涙に浸るようでもある。

しかし、このいわゆる第1主題は、表現性できわだつのみならず、論理性も備えている。主題の音のいくつかをオクターヴ移動させて、音列のように並べると、譜例下のようになる。冒頭のHから下行3度が連鎖し、H-Eの上行4度(=下行5度)を経て、今度は3度で上昇する。美しい規則性を備えており、音楽に内在する論理から旋律が導き出されたようである。表現と論理の一致。まさにブラームス的といえるだろう。

みずからの肖像のような旋律を案出して、ブラームスはさぞ満足だったろう。しかし彼は別の可能性をも見い出したはずだ。この主題は半小節遅れでずらして組み合わせることができる。いわゆるカノンという一種の対位法的処理であるが、立体的に旋律が絡み合うことで、音楽的密度が高まる。主観的な情緒性に流れるより、より客観的な説得力を増す。伝統的にポリフォニーは「壮麗なもの」「記念碑的なもの」の表現でもある。

ではそれをどこに配するか。答は、圧倒的な時を現出させる、コーダである。ブラームスはこのとって置きの手法を、最後の切り札として、コーダに投入したのである。譜例ではバスから厳粛に出る主題に対してカノンで応える音楽構造を色分けしてある。

第1楽章のクライマックスであり、それを見越して、展開部での盛り上げはやや控え目だったようだ。これが作曲というものである。作曲はただの旋律・楽想の案出を意味しない。むしろそれらをいかに構成するか、なのである。楽想をどの位置に、効果的に配置するか、楽想と楽想は文脈に合わせていかに繋ぐか。要するに「組み立てること」が作曲(コンポウズ compose)なのである。ブラームスは第1主題が秘めていた性格を顕在化させ、コーダで爆発的なクライマックスを生むように処理、配置したのだった。

『4番』ではブラームスはもうひとつのアイディアを温めていたようだ。それは展開部のはじめを聴くと(見ると)よくわかる。譜例左が第1楽章冒頭、右が展開部冒頭である。

展開部冒頭をその少し前から聴いてみる。

145小節目から展開部とみなせるが、要するに、左と全く同じである。これはソナタ形式のルールからはありえない。展開部への移行は、別のところへ行ったことがわかるように、離れた調へ移るのが定石だからである。しかしブラームスがそれを知らないはずがない。では彼の狙いは何だったのか。ここで気づくのは、この『第4番』だけが、第1楽章に提示部のリピート記号がないことである。

展開部の冒頭で、聴者は「あ、リピートしたな」と感るはずである。ところがすぐに「あれ、違うのか? 展開部に入ってたんだ」と気づくことになる。ブラームスは提示部の反復をはずしながら、繰り返したように聞こえるようにしたのではなかったか。形骸的ともいえる「そのままリピート」を省略し、しかもリピート効果も残しながら、より有機的な楽章を構成する試み、とでもいえようか。実はこの試みはすでにベートーヴェンに遡る。そしてブラームスは彼の足跡を学び、すでにいくつかの作品で踏襲していたのである。その最終回答ともいえるのが『第四』第1楽章だっただろう。だからブラームスが「リピート記号の省略化と有機化」を意図していたというのは、単なる憶測を超えた信憑性がある。

ところが、ここでブラームスにとって問題となる事態が生じたようだ。ソナタ形式の図式と『第4』での工夫の結果、第1主題は必然的に「提示部冒頭」「展開部冒頭」「再現部冒頭」「コーダ」の4回出ることになる。この4という数はやや多くはないか。コーダでは姿を変えているとはいえ、その前の3つの部分で同じ形で出るなら、やや形式的な硬直感がないだろうか。

ちなみに交響曲『1番』と『2番』の第1楽章では、第1主題は提示部冒頭と再現部冒頭に現れ、消えるようなコーダでは回帰しない。したがって提示部をリピートすれば、第1主題は提示部2+再現部1の3回提示されることになる。『3番』では第1主題はそのままではないが、コーダにも出る。したがって4回ということになるが、もし提示部をリピートしなければ、3回で済むことになる。ところが『4番』ではリピートをは無いため、「しなければ」は想定できない。そこで必然的・固定的に主題は4回現れることになる。もう一度問うが、この数は多いか。

少なくともブラームスの形式的嗅覚には多いと感じられたのかもしれない。しかも主題をそのまま出すことはスクエアに感じられたようだ。そこでブラームスは特異な書法を考案した。主題に何らかの手を加えることができるとしたら「提示部」「展開部」「再現部」「コーダ」のうち、「再現部」しかない。ほかはすべて固定されているからである。そこでブラームスはこのように主題を再現させたのである。

木管で出るB-G-Eと次の長いCは第1主題冒頭の4音にほかならない。つまり再現は第1主題そのままではなく、拡大されて姿を現すのである。こうしてドラマティックな再現ではなく、静寂の中で、ひっそりと、魔法のように主題が浮かび上がる。われわれはその時はまだ再現に気づかないほどである。しかし冒頭のテンポが戻った瞬間に、主題は再現していたこと、それてわれわれはすでに再現部のただ中にいることを知るのである。

再現の少し前から。

こうして、ソナタ形式の硬直性は排除され、再現は夢幻的ともいえるファンタスティックな装いとなる。そしてそれがコーダでの厳粛な再現をよりきわだたせもするのである。

おそらくは、この音楽を創作するにあたり、以上のような音楽思考がブラームスの頭の中で多層的・多元的に進行していたのだろう。そうした思考の糸を解きほぐすことは、ある種のミステリーを推理する楽しみにも通じるのかもしれない。

それにしても、第1主題の冒頭を隠し、後半からはっきりと提示させる方法は、あのハイドンの交響曲第95番ハ短調での再現を思い浮かばせる。さらにモーツァルトやベートーヴェンの影も見えたのだった。まさに「新しいことをするには、古いものをよりどころに」という温故知新の巨匠ブラームスの面目躍如たるものがある。しかし、学習の成果は『第四』では完全に「ブラームス」へと昇華されているのである。