お楽しみは最初に? それとも最後に?―メンデルスゾーンとブラームスのヴァイオリン協奏曲
クラシック音楽の原初体験はよく憶えている。小学生の時、音楽の授業で耳に飛び込んできたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だった。「うわー!」という感じだった。何という甘美! まるで魂が吸い寄せられるようだった。もちろん当時は何が何だかわからなかったけど、確かに憶えている。「これがクラシックという音楽なのか」という思いに打たれた。
メンデルスゾーンの作曲上の戦略
わたしにとってそれがクラシック音楽のイメージそのものとなった。要するに、クラシックの起点ともいえる音楽だったわけだが、ある程度、その道を歩いてきた今なら、もうちょっと冷静な見方ができるかもしれない。たとえばこんな風である。ヴァイオリン協奏曲の創作にあたって、メンデルスゾーンはどのような戦略を立てたのか、などと。
メンデルスゾーンが抱いていたアイディア、もっといえば革新は2つあったように思う。それを説明するには、伝統的な協奏曲について説明しなければならない。
古典的な協奏曲の第1楽章はいわゆる「協奏風ソナタ形式」である。これは「オーケストラ提示部(オーケストラのみ)」+「ソロ提示部(ソロ+オーケストラ)」+「展開部」+「再現部」+「カデンツァ」+「コーダ」という図式で表される。モーツァルトのピアノ協奏曲など典型的である。
この伝統的な形に対して、メンデルスゾーンが打ち出した新機軸は2つあったと考えられる。
1.オーケストラ提示部の省略
オーケストラだけだった部分(オーケストラ提示部)にソロが加わって、もう一度繰り返す(ソロ提示部)。これはちょうどソナタ形式の提示部の単純なリピートを、協奏曲風にアレンジしたようでもある*。しかし楽器が変わるとはいえ、同じことを繰り返すのは、いかにも形式的であると感じられたのか。メンデルスゾーンはオーケストラ提示部を省略してしまった。最初からソロが出る。
*厳密にいえば協奏風ソナタ形式の場合は普通のソナタ形式の提示部×2ではない。いわゆる第2主題部はオーケストラ提示部では主調、ソロ提示部で属調となり、調が異なるからである。
2.カデンツァを展開部へ移す
カデンツァは、バロック以来、楽章を締める直前に音楽が一旦停止し、ソロ楽器が名人芸を披瀝するところである。聴衆はもちろんオーケストラ団員も指揮者も注目する中、独奏者が八面六臂の輝きを放つ。しかしこれもやはり形式主義的すぎないか。何といっても、そこで音楽が止まる。ソロの技巧的な部分といえば展開部である。だったらカデンツァを展開部にもっていけばいいではないか。結局、展開部の最後にカデンツァ的部分を置き、再現部へスムーズに繋げることにした。
メンデルスゾーンの2つの新機軸の根底にあるのは音楽の「継続性」「流れ」を重視したことにある。なぜならオーケストラ提示部の廃止は音楽が元に戻ることを止め、カデンツァの移動は音楽を中断させないことを意味するからである*。こうしてメンデルスゾーンの同じ志向が「3つの楽章を繋げる」という発想にも現れることになる。
*ちなみに習作ともいわれるヴァイオリン協奏曲(1822年)にはオーケストラ提示部があるが、単なる反復に陥らないような工夫が見られる。番号が付いた2曲のピアノ協奏曲(第1番ト短調1831年、第2番ニ短調1837年)にはオーケストラ提示部は無い。
第2楽章アンダンテと第3楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェは前の楽章と切り離されるのではなく、フェルマータを置いて続けて演奏される。すべての楽章がひと繋がりとなるのである。
新機軸から生じた問題点?
こうしてメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲第1楽章では、弦のざわめきとティンパニの鼓動に続いて、すぐにソロ・ヴァイオリンが飛び出す。あの胸をかきむしるような、えもいわれぬ音色に輝く旋律美が眩い。
圧倒的な開始である。古典的な協奏曲のように、まずおもむろにオーケストラが音楽を開始し、ソロの登場を準備するのではない。冒頭にして、いきなり音楽の核心に切り込むのである。
ベートーヴェンは第4ピアノ協奏曲でも、第1楽章をソロ・ピアノの主題で開始したが、オーケストラ提示部は残した。だからソロ提示部でまた同じ主題に戻ることになる。しかしメンデルスゾーンに「逆行」はない。モーツァルトではないが、音楽は振り返ることなく、疾走する*。
*だから、歌を重視するあまり、遅すぎるテンポはどうなのか。何といっても2拍子のアレグロ・モルト・アパッショナート(情熱的な快速調)なのである。
結果として、オーケストラ提示部を省くメンデルスゾーンのアイディアは、主題提示の回数を減らすことになる。古典的な協奏風ソナタ形式ではオーケストラ提示部、ソロ提示部、再現部での3回が保証されたが、必然的に2回となってしまうのである。
さらに、展開部の最後をカデンツァと見せかけて再現部へ突入するという、第2のアイディアは、技巧的なパッセージをソロ・ヴァイオリンに回すことになった。結果として、再現部はこう始まる。
主題の再現は第1ヴァイオリンとフルート、オーボエに回されるのである。
ソロは細かいパッセージのまま、いわゆる第2主題への繋ぎの部分へ移ってしまう。こうして、冒頭のあの鮮烈な主題がソロ・ヴァイオリンの美音を湛えて演奏されるのは、1回だけ、それも冒頭のみということになる。
これはどう考えるべきか? 問題だというのはいいすぎだとしても、「もったいない」ではないか?
チャイコフスキーの回答
少なくとも、チャイコフスキーはそう感じたに違いない。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は1844年の作だった。34年後の1878年にチャイコフスキーが同じジャンルの作品を構想した時、先人の名作を意識したことは間違いない。作品そのものがそれを物語っている。チャイコフスキーはメンデルスゾーンの2つのアイディアを継承したように見えるからである。
すなわち1)オーケストラ提示部を省略し、2)カデンツァを展開部へ移したのである。チャイコフスキーがいかにメンデルスゾーンの作品を高く評価していたかがわかる。ただし、そのまますべてを踏襲したわけではなかった。
まずチャイコフスキーの抒情美溢れる楽想はメンデルスゾーンのような疾走調ではなかった。そのためか、独奏ヴァイオリンが主題を歌う前に短い序奏が置かれた。そして問題の再現である。カデンツァが終わりかけたかと思ったその時、何とフルート・ソロで主題が戻ってくる。
しかしソロ・ヴァイオリンがすぐにそれを引きとり、再びカデンツァのようなパッセージに流れ込むかのようだ。だが主題は戻ってくる。
今度は独奏ヴァイオリンが悠然と主題を弾き出すのである。
チャイコフスキーがメンデルスゾーンを継承し、しかもそこに彼なりの手を加えているのがよくわかる。受け継いでいるのは、カデンツァからの再現はソロ・ヴァイオリン以外の楽器で行うということである。手を加えたのは、その後、独奏ヴァイオリンにやはり主題を受けもたせたことである。
しかもチャイコフスキーはメンデルスゾーンのアイディアをいっそう補強しているようにも見える。つまり最初の主題の再現は可憐なフルートのソロに委ねられ、楽器の魅力を増しているからである。そして主題がソロ・ヴァイオリンに回ると、ダブル・ストッピング奏法で弦楽器の魅力を引き出す。つまり楽器の特性が加味・強化されていることになる。
メンデルスゾーンのアイディアに基づきながらチャイコフスキーに「改変」を促したのは何だったのか。ソロ楽器が主題の再現をしないこと、そうすることでソロでの主題提示が1回だけになってしまうことへの警戒ではなかったか。
お楽しみは最後に-ブラームスの場合
実はブラームスのヴァイオリン協奏曲もチャイコフスキーと同じ年の作品である。だがメンデルスゾーンを意識したに違いないが、ブラームスはオーケストラ提示部を省略はしなかったし、カデンツァも伝統的な位置に置いた。ただしオーケストラ提示部は絶妙な長さに切りつめられ、独奏ヴァイオリンの導入をドラマティックに演出する匠の手腕を見せる。ブラームスが参考にしたのはモーツァルトだっただろうが、ここでは論じない。
それにしてもやはり問題となるのは主題の提示である。古典的な形式に従っているから、基本的に主題提示は3回となる。冒頭、まずこんな形で出る。
主題はブラームらしい分散和音を上下し、7小節という不規則構造なのに、少しも不自然さを感じさせない。練達の業である。まずファゴットとヴィオラ、それにチェロのユニゾンで、途中からホルン、最後にコントラバスが加わる。
これを見て思うのはベートーヴェンの『第九』である。「歓喜の主題」は最初チェロとコントラバスのユニゾンで出る。なぜか? 答えのひとつは、この主題は曲の進展とともにさまざまに変奏されるからである。「主題と変奏」の「主題」である。ブラームスのこの場合も同じである。先まわりしていっておけば、ブラームスは、ヴァイオリン協奏曲第1楽章で、提示ごとに主題に異なる装いを与えた。
オーケストラ提示部からソロ提示部に移るところは、ブラームスの数ある頁の中でももっとも美しい部分といえる。緊張が最高潮に達した瞬間に、独奏ヴァイオリンが見得を切るように登場する(第90小節)。主音Dのオルゲルプンクトが鳴り続ける間、ソロとオーケストラの緊迫した掛け合い(第94-101小節)。静と動の織り交ぜ。それから木管楽器が次々と主題の断片のアーチを架け、波紋のように虹が幾重にも広がる。奥行き深いパースペクティヴの中で、ソロ・ヴァイオリンはまるで金色の糸で細かい装飾を施すかのよう(第102-134小節)。そしてついに主題が姿を現す。
ソロ・ヴァイオリンが朗々と歌うのである。だが7小節の主題は完全な充足を与えない。ソロはただちに細かいパッセージに入ってしまう。さあ今度の主題提示は再現部である。
何とブラームスはオーケストラのトゥッティで主題を再現させたのだった。主題は第1フルート、第1オーボエ、第1クラリネット、D管ホルン、そして後半はトランペットで出る。いかにも「さあ、戻った」という感じで、再現的ではある。
しかし独奏ヴァイオリンは無言である。ソロで主題を提示しないのはメンデルスゾーンの影響か? 楽章の顔ともいうべき主題をコンチェルトの主役たるソロが担当しなくていいのか?
ブラームスもそう考えたに違いない。実は彼にはとっておきのアイディアがあった。これまで3回の主題提示があったが、4回目を最後にとっておいたのである。
カデンツァの後、トランクィロ(静かに)となり、主題ははじめてドルチェ(甘美に)と指示されて、登場する。そして、深い瞑想のうちに、主題の全貌が姿を現すのである。提示部でやや物足りなかった思いは、ここで完全に満たされる。
中声部から下の暖色系のハーモニーの移ろいの中で、独奏ヴァイオリンは金色の光で輝く。最高音に達した時、優しく木管が応え、歌い交わす。黄昏が迫る夕映の静謐の時に至福が現出する。
明らかにブラームスは最後の4回目の主題提示に、表現上のクライマックス、あるいは最深部を設定したのである。
「最初の美学」と「最後の美学」
実は「コーダに表現上の山場を置く」というのはブラームスの創意だった。第1交響曲第1楽章ではコーダで音楽が崩れ落ち、オクターヴのヴァイオリンが詠嘆調の旋律を歌う。また第2交響曲ではホルンのソロが現れ、訴えるようにあえぎながら、消えていく。ベートーヴェンだったら音量上の山場、文字通りのクライマックスをここぞとばかりに爆発させただろう。だが同じところでブラームスは表現を深化させた。ベートーヴェンが物理的だとしたら、ブラームスのは心理的クライマックスであり、そこに彼のロマン性がある。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が続く作曲家の指針となったことは間違いない。チャイコフスキーが受けた影響は直接的だったろうが、ブラームスの作品も変化球的な回答だったのかもしれない。ある意味、メンデルスゾーンの曲には解決されるべき問題が内包されていたようにも見えるからである。
確かにヴァイオリン的としかいいようのない高弦で、あの妙なる旋律が颯爽と歌われるのが一回きりというのは、なんとも口惜しい気がしないでもない。しかも、何度もいうが、まだ心の準備ができていない曲の冒頭だけである。
しかし、かつてわたしがあの曲の出だしに打たれたのは、まさにメンデルスゾーンが望んだ効果だったのかもしれない。「時よ、しばしとどまれ、おまえはあまりにも美しい」。そう叫ばせるような何かがそこにある。
メンデルスゾーンとブラームスとの違いは形式上の工夫を記述することで済まされるものではない。まして優劣とかではとうてい測れない。むしろ彼らの根底にある「最初(はじめ)の美学」と「最後(おわり)の美学」の違いなのだろう。
早熟メンデルスゾーンにとっては美はすぎゆくもの。振り返った時、それはもはやもとの美ではない。晩成で老練なブラームスにとっては、美は無私の心をもって積み上げ、磨き上げるもの。両者の個性と美学の違いがヴァイオリン協奏曲に表れたのかもしれない。