謎は出生から読み解く―「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」
日本で一番人気があるスタンダード・ジャズは「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」だという。この曲だけをとりあげて、さまざまな歌手が歌った企画CDがあるくらいだ。曲は1937年のミュージカル『ベイブズ・イン・アームズ』の中で歌われたナンバーで、作詞・作曲はリチャード・ロジャーズとロレンツ・ハートによる名コンビ。その後、舞台から独立して、エヴァー・グリーンのスタンダードとなった。もっともよく聴かれる歌唱はチェット・ベイカーだろう。中性的ともいえる甘いヴォイスは不可思議でセクシャルな魅力を醸し出す。
メランコリックで、お洒落、まるでトワイライト・ゾーンの雰囲気に包まれるような素敵な曲。誰も異存がないはず。ところが、ある時、歌詞を見て首をひねった(原詩は上の動画にあるので、日本語訳だけ)。
わたしのおかしなヴァレンタイン
やさしくて 面白いヴァレンタイン
わたしを心から笑顔にしてくれる
ルックスは笑えるし 写真写りもよくない
でもあなたはわたしのお気に入りの芸術品
ギリシャ彫刻ほどナイス・ボディじゃないわね
口もいまいちかしら それでお利口さんに喋れるの?
でも髪型を変えたりしないで わたしのことを思うなら
そのままでいて かわいいヴァレンタイン ずっと
わたしには毎日がヴァレンタイン・デーなの
これはいわゆるコーラス(歌)で、前には本来ヴァース(語り)の部分が付くが、そこではヴァレンタインの描写はもっとひどい。彼は「 ぼんやり屋さん」で「虚ろな頭」と「 乱れた髪」の善人、そして気高くも誠実で「少しばかり間の抜けた紳士」だという。けなされたりもちあげられたりの振幅の幅広さ。しかしここまでいわれて気を悪くしない男はいないのではないか。あの甘い歌声で、こんなことを歌っていたのか!
この歌詞をどう理解すべきか。正直、奇策?奇解釈?を弄してみたが、どうもピタッとこなかった。たとえばヴァレンタインの欠点の多さは、それもかかわらず愛する彼女の思いの深さと比例するという説とか、すべてをひっくるめて受け入れるのが愛であるという説とか。まあ理論的にはわかるが、現実性が感じられない。少なくとも彼氏の名前とヴァレンタイン・デーをかけているのは自明だが、どうもすっきりしない。
すると「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」がミュージカル・ナンバーであったことが想い起こされた。かつては流行歌というものは、舞台から発信された。ヨーロッパのオペレッタがアメリカではミュージカルとして独自の発展を遂げた。その中で歌われた曲がヒット・チューンとして、舞台から離れて歌われるようになったのである(プラハの街で『フィガロの結婚』の「もう飛ぶまいぞ」が大流行したのを想い起こさせる)。19世紀は音楽を伝える媒体は楽譜だったため、ブロード・ウェイ界隈の楽譜業者がたむろする賑やかな通りはティン・パン・アリーといわれた。20世紀にメディアはレコードとなり、1927年には初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が生まれた。この映画はミュージカルで、映画に音声をつけるトーキーの技術の開発は、そもそもミュージカルの映画化を目的としていたのだろう。そして30年代にはラジオ放送が始まる。こうして音楽の舞台離れが一挙に加速する。
『ベイブズ・イン・アームズ』は借金に追われた役者の親たちを救うために、子供たちがミュージカルを興すというコメディのようだ。そのドタバタと恋の絡み合いの中で、スージーが密かに思うヴァル(=ヴァレンタイン)がいた。ヴァルにとってはスージーは妹のような存在にすぎなかったのだが。そんな彼がスージーのもとを立ち去った後に歌われるのが「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」だった。下は2008年の高校での上演。
これでやっとわかった。「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は目の前の「あなた」に向かって歌われているのではない。去った後のヴァレンタインの幻影に向かって歌われていたのである。だからこそ直接的にはきつすぎる言葉が並べられるのだし、レトリックなしに受けとることができるのである。そしてだからこそ「そのままでいて」という願いの真情がにじむ。
これは常識だったかもしれない。しかし舞台から歌が独り歩きした時、歌われた場面設定も消滅するという事実は確認しておいてよい。なぜなら、ヴァレンタインに向けて歌っているという「普通の」とらえ方をしてしまいがちだからである。たとえば次の例は「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」からインスピレーションを受けたに違いないビリー・ジョエルの「素顔のままに」である。
ビリー・ジョエルは明らかに「そのままでいて」というアイディアを「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」から借りたのだが、歌い手は女性ではなく、男性が女性に歌いかけるよう変えた。そのままでは真似のようになるからである。さらにその時「本人がいない場で歌う」という設定ではなく(あるいは知らずに)「本人に向けて歌う」普通の曲としたのである。だからこそ欠点をあげつらうのではなく、
新しいファッションに走らなくていい
髪の色を変える必要もない……
しゃれた会話なんていらない……
ただ気楽に話せる人がほしいだけ
といった「忠告」にとどまるのである。肉体的にどうのとか、ルックスがおかしいといったレヴェルは完全にそぎ落とされる。もしそれが真実だとしても、いや真実であるからこそ、本人に向かっていうべきではない。
もし本人に「あなた写真写りが……」なんていうとしたら、チェット・ベイカーみたいに暗いしっとりとした歌い方はありえないだろう。軽ろやかに、明るく、茶化すようなコケティッシュな歌い方がふさわしいかもしれない。たとえば次のリタ・ライスのような。
それしても、リタ・ライスの軽妙な歌唱も、ヴァレンタインに向かってではなく、彼のイメージに向かって歌うという前提から離れているのは確かだろう。相手に向けて歌いかける普通の歌として詩を重視したアプローチだったに違いない。
独立したと思っていた作品が、いつまでも自分の出生を引きずっているという例だろうか。